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2015年3月

2015年3月27日 (金)

平尾山(箱膳)

平尾山は豊橋自然歩道の縦走路にある山で、豊橋、三ケ日、新城に接しています。豊橋では1番高く464mあります。

Ooharachouseihiraoyama

豊橋石巻の中山峠や三ケ日の宇利峠から登る人が多いですが、大原調整池の奥から登りました。大原調整池からは2回ほど挑戦していますが失敗しています。

標識のあるところを行きました。以前もここを行きましたが、分かりませんでした。今日もここを行き、残された道を行きましたが、三角点がありそこで道は終わりでした。

P3270002平尾山への標識

今度は引き返すとき、藪道に入りました。また林道に出てしまいました。どこの林道かわかりません。林道を歩いていると人が来ました。

よくぞ逢ったと思います。しかもたいへん詳しい人で、一緒に平尾山まで行ってくれるといいます。林道を少し引き返しそこに登山口がありました。

途中富士山や南アルプスが見えました。ショウジョウバカマがよく咲いていました。

P3270009南アルプス(右より聖、赤石、悪沢)

平尾山に着きました。樹木に囲まれていて展望はありません。

P3270011平尾山頂上

宇利峠方向に向かいます。途中展望がよく三ケ日の街、富士山が見えます。更に行くと、鉄塔があり、ここで分岐となっており、大原調整池方向に下りました。

合計3時間余りの歩きでした。天気も良く、花も見られ、大原調整池周辺には桜が咲き始めていました。よい山歩きが出来ました。

さて、これまでに登山口標識の方向へ3回行きました。あらゆる道を行ってみましたが、行けませんでした。平尾山に行ける道があるのでしょうか。

山に関係ない戦中戦後の話を書きます。

食事スタイルは戦後の頃はちゃぶ台が普通でした。それより前と思いますが、当ブログには箱膳の記憶があるのです。当ブログが生まれたのは昭和15年です。16年に戦争が始まり、20年に終戦となりました。

記憶に残っているということは終戦の頃、箱膳を使っていたということでしょうか。いつも使っていたのではなく、ときどき使ったのかも知れません。映画で江戸時代に箱膳を使っている場面はよく見ます。

箱膳とは箱の中に自分の食器を納めておき、蓋を返せばその上が膳となって食事ができるようになっています。 終わればまた箱の中に食器を仕舞っておくというものです。

Hakozen_2箱膳  ネットで拝借しました

食事の最後は茶碗にお茶をたっぷり注ぎ、たくわんで茶碗をぬぐい、そのお茶を飲みほします。きれいになった茶碗をそのまま膳の中に伏せておきます。

次のときはそのまま使用をします。手が掛からず、まことに合理的です。いつの時代までかわかりませんが、今ではとんでもないと言われるかもしれません。

当ブログは茶碗をきれいにするまでは行いましたが、次にそのまま使ったかどうかは分かりません。そのまま使っていたのは、忙しかったし、水が大切であったということでしょうか。

今でも茶碗をきれいにする感覚は残っています。ごはんは1粒も残しませんが、茶碗もなるべくきれいにするようにしています。

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2015年3月24日 (火)

富士見岩(逸勢桜、戦後の履物)

今日は彼岸の明けです。冷え込んでいますが、青空です。富士山が見えるのではないかと富士見岩に、最も近い本坂峠から行って来ました。

Fujimihonzaka

30分ほどで頂上です。富士山は見えました。しかしやや霞んでいます。富士見岩にいた人の話では3月で富士山が見えたのは初めてだと言うことです。

毎日来ているのでしょうか。冬はほんとによく富士山が見えました。今日見えたのは運が良かったかもしれません。

P3240016今日の富士山

浜名湖もきれいに見えます。

P3240010浜名湖 奥の橋は1号線浜名大橋

桜が咲き始めています。本坂にある逸勢桜(はやなりざくら)は他の桜に先駆けて早く咲きます。普通のエドヒガン桜でちょうど満開でした。三筆の橘逸勢の墓があるのでこのように名付けられました。

P3240039逸勢桜1

P3240047逸勢桜2

P3240060逸勢桜

P3240043逸勢桜4

瞬く間に桜の春となりました。パッと咲き、パッと散る桜、やはり花は桜です。日本の一番きれいなとき、やがて花で埋まります。

話は変わります。戦前戦後の話を書いています。

当ブログは昭和22年4月小学校入学でした。戦後2年目でした。物が全くない時代です。食料は以前のブログに.書きましたが、衣類もほとんどの子が継を当てた服でした。

この頃の履物は下駄、藁草履でした。当ブログは小学校へは下駄で通いました。中学校通学も途中まで下駄でした。

下駄はかなり薄くなるまで穿きました。その間に何回かの鼻緒替えをしました。鼻緒は歩いている最中に切れるので、切れた下駄をぶら下げ、片方は裸足で歩きました。

大人はその場で手持ちの布や手ぬぐいなど裂いて挿げました。冬は足袋を穿きました。鼻緒に指が入るようにするため、足袋には食い込みが必要です。足袋も自分の家で作りました。

雨のときは高歯でしたが、小学校も後半は長靴が穿けるようになりました。高歯はかなり歩きにくくなります。道は土で水たまりだらけ、すぐに泥まるけとなりました。

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高歯と藁草履(こんな上等ではありません)  ネットで拝借させてもらいました

遊びで下駄投げをしました。足を振って下駄を飛ばすと表、裏、横のどれかになります。表は晴、裏は雨、横は曇りと明日の天気を占います。

藁草履もいつも穿いていました。藁草履も自分の家で作りました。当ブログも小学生でしたが作りました。細い縄を作り、両足の親指に引っ掛けてそれに藁を編んで行きます。今でも作れそうです。

藁草履は雨が降れば、ぐちゃぐちゃ、それでも履きました。藁草履は何足も作って吊るしてあり、ぼろぼろになれば変えました。

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2015年3月23日 (月)

雨生山(銭湯)

寒の戻りでまた寒くなっています。桜の園の咲き具合を見ながら、雨生山(うぶさん)に行って来ました。

Ubusan2

金山と両方行けますが、雨生山だけにしました。桜の園西の道を行きます。林道を通って登山道に入ります。展望の良いピークに着きました。雨生山や吉祥山が形よく見えます。

P3230003林道から登山道に入るところの案内板

P3230005ピークからの雨生山(左)と吉祥山

すぐに雨生山頂上です。尾根歩きは寒く防寒着が要ります。浜名湖がよく展望できます。

P3230007雨生山頂上

P3230008頂上からの浜名湖

帰りは桜の園の方の道を通りました。桜はほとんど見られません。比丘尼城址を通り、車まで戻りました。

P3230016比丘尼城址

2人に逢っただけでした。

戦後の銭湯の話を書きます。

当ブログが初めて銭湯に行ったのは、小学校入学より前、母親に連れられて行ったときです。この時の印象が強く残っているのです。

女湯に入りましたが、珍しくてはしゃぐこともなくじっとしていました。ただ風呂が熱くて蛇口から出ているのが、湯か水か聞いたのを覚えています。

小学校入学してからは、銭湯は子供の遊びの続きでした。日暮れまで遊んで、その後連れだってときどき銭湯に行きました。戦後のこの当時は風呂の無い家もあり、あっても薪が乏しく、水も貴重でしたので銭湯へ行きました。毎日は行けません。

タオル、石鹸、、ボール紙で出来た入浴券(子供5円、大人10円)などを持って行きます。風呂屋は昔懐かしいあの昭和の風呂屋です。番台には怖いおばあさんがよく座って居りました。

浴槽のある方は壁に大きな富士山の絵が描かれていました。遊びの延長で風呂の中でもはしゃぎました。早くから風呂に来て、ゆったりと入っているおじいさんもいます。

そういう時はそのおじいさんに、どん叱られました。当たり前です。自分だけでなく他の人と一緒に入ると自然にマナーも身に付いて来ます。

先に湯船に入る人、先に洗う人それぞれありますが、その頃は皆先につかりました。そのとき腰を湿らし、身体に掛け湯をして入ります。そういうことが自然に身に付いて行きました。

その他の風呂のマナーや洗い方も身に付いて行きました。ただ子どもにとっては風呂は熱く、うめるわけにもゆかず、少し竦んですぐに飛び出しました。

ワイワイガヤガヤ言いながら、家に帰りました。中学の頃には風呂も家で沸かすようになり、銭湯には行かなくなりました。

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2015年3月22日 (日)

座談山(行水)

昨日ミツバツツジを見て、この頃にカタクリも咲き出すと思い、座談山に行ってみました。午後の1時でしたが、50台ほど停めることのできる駐車場も立錐の余地もないほど満車です。

入口奥の別の駐車場に置きました。葦毛湿原はハルリンドウやショウジョウバカマ咲き始めていました。

P3220023ハルリンドウ

葦毛湿原奥の道を行き、NHK中継所に着きました。果たしてカタクリは咲いていました。広い範囲で咲いています。座談山にも咲いていました。

P3220011カタクリ1

P3220012カタクリ2

P3220019カタクリ3

まだこれからたくさん咲いて行くと思います。カタクリは人気のある花です。花の色がやさしく俯いて楚々と咲くところが控えめでよいのかもしれません。

今日は日曜日で風も無く、花も見られるので特に人が多かったように思います。

戦前戦後の話を書いております。今日は行水の話です。

戦前戦後の頃はよく行水をしました。行水は汗を流し落とし、身体を清潔にするためにしますが、夏の暑さしのぎのためにも行いました。

洗濯用のたらいに釜などで沸かした湯を入れ、水で薄めて適当な温度にします。行水の場所は家々でそれぞれ室内、室外ありましたが、当ブログの家では井戸の傍で行っていました。

その頃当ブログの家にも風呂はありましたが、風呂でなかったのは湯水が得難かったからです。

湯水を入れたたらいに座り、手拭いや手桶で肩に湯を流したり、身体を拭ったりしました。たらいの水は替えることなく、順番に入って行きました。

どこの家でも行水は行っていましたが、室外では垣根に囲まれたところや塀のあるところで行っていたようです。当ブログは他の家の行水を覗いたことはないので分かりませんが、娘さんから若い奥さんまで入っていました。さすがに暗くなってから入ったようです。

この行水には一つ想い出があるのです。たらいに入りやすいように傍に板を置くのですが、あるときこの板に錆びた釘が刺さっており、しかも釘の先が上側に出ていたのです。

小学校1年の時だったと思います。私はこの釘を踏んでしまいました。ギャオーと大泣きです。おばあさんがすぐに跳んできて、私を抱き上げました。

しかし板は足にくっついて上がってきました。必死で足を振りました。板がパタッと落ちました。その頃は医者に行くことはめったになかったので、赤チンを付けて終わったようです。

その後は大事にもならなかったようです。すぐに跳んできて助けてくれたおばあさんに感謝しています。

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宇津山(ミツバツツジ、渡し船)

湖西市入出(いりで)宇津山(うずやま)にミツバツツジが咲きました。桜に先駆けて咲きます。宇津山は正太寺(しょうたいじ)の敷地内にあります。

宇津山は高さ50mの山で頂上は戦国時代の城跡となっています。浜名湖に突き出した正太寺鼻にあり、山一面にミツバツツジが咲き乱れます。

you tube にアップしましたので見て下さい。

別の話を書きます。

三ケ日の瀬戸には銀色の吊り橋と赤い吊り橋が架かっています。銀色の橋は昭和30年に、赤い橋は昭和43年にできました。

Hamanakohokubuhaikingu瀬戸の位置

橋が出来る前は、櫓漕ぎの渡し船で人や自転車を運んでいました。渡し船はかつて全国の至る所で見ることができました。

私もこの瀬戸の渡し船に何回か乗り渡ったことがあります。自転車が乗せやすいようになっていました。

この渡し船から、1月31日に書いた 赤岩尾根ピーク(戦争体験) の湖に沈んだ戦車が見えたそうです。 

私が中学生1年生のとき銀色の吊橋ができました。そのとき自転車で見に行きました。

櫓漕ぎの船など今ではほとんど見かけなくなりました。渡し船は郷愁があります。自然とふれ合える場として心がなごみます。豊橋牛川には、今も渡し船があります。

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2015年3月20日 (金)

岩古谷山(トンコ船)

数日前の中日新聞地方版に設楽町神田の黒梅(こくばい)がちょうど見頃という記事がありました。この梅の花見と兼ねてその近くの岩古谷山(いわこややま)に登ってきました。

黒梅は梅林ではなく樹高8mほどの一本梅です。薄墨桜のように花びらが散り際に黒くなるわけではありません。濃い紅梅です。

P3200007黒梅1


P3200002黒梅2

P3200004黒梅3

何故黒梅かというと、枝を切ったとき切り口がふつう白いですが、この梅は黒いということです。民家の庭先にあり、樹齢80年以上、今年は花をよく付けています。

梅を見て10分ほど車で走り、岩古谷山へ行きました。堤石トンネルの田口側から登りました。ホームページに書きましたので見て下さい。

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戦前戦後の頃の話を書きます。

小学校のときトンコ船に乗り、遠足に行きました。トンコ船とは焼玉エンジンを付けた大きめの木造船です。当時は車が無く、船が運搬に使われていました。

Imagest44jvc3rトンコ船はこのような感じの船です。ネットで拝借しました

この船一隻にちょうど1クラスが乗れ、1学年6クラスの6艘が三ヶ日より弁天島の砂浜に行きました。

昼食にはほとんどの子が自家製の梅干しのおにぎり、たくわん、これは特別でしたが紙に少し塩を包んでゆで卵、他に飴玉など持って行きました。まだ戦後で豊かではありません。

6艘の船は競争のように波を蹴立てて進んで行きました。やがて他の船に負けまいという気が子ども達にも出てきました。この頃には船のおじさんとも大分打ち解けておりました。

船のおじさんに飴を1つ挙げるからスピードを上げてと言うと、飴を頬張りながら、エンジン室に下りて行き、おじさんはスピードを上げてくれました。他の船に近づいてきました。

皆は歓声を挙げました。子供にとっては大事な飴でしたが、実はおじさんは飴など特に好きではありませんでした。いかにも大好物のような顔をして飴を頬張っていました。

こんなことがあって単調な海の旅も楽しいものでした。おじさんは子供が大事にしている飴であるからこそ、頬張ることで子供と同じ気持ちだったのです。やさしいおじさんのお蔭で楽しい遠足となりました。

トンコ船は今では見かけることはほとんどありません。普段は砂を運んでおりました。木材や荷物の運搬などもしていました。

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2015年3月17日 (火)

富幕山(馬力屋)

久し振りに奥山高原から富幕山を歩いて来ました。明日から彼岸の入り、暖かい日となりました。なれない囀りかたで鶯も啼いて居ました。

Tonmakuyama

途中の展望台から見える富士山が楽しみですが、今日は見えません。40分で頂上です。4人が居りました。

P3170010頂上

P3170008浜名湖

ここからまた違う話を書きます。

戦後馬で荷物を運ぶ職業に馬力屋がありました。当ブログの住んでいた街には、瓦屋が数軒あり、馬力屋が瓦を造る材料の粘土を運んでいました。

10168323_2こんな感じの馬車で粘土を運んでいた。ネットで拝借しました

小学生低学年であった当ブログはその粘土をときどき失敬しました。馬力屋が粘土を積んでいつも家の前を通ります。通り過ぎるとき荷台の後ろから粘土をかすめ取るのです。

一塊の粘土を取って粘土細工をして遊ぶのです。馬を引くおじさんは無口で飄々と歩いていました。おじさんには気が付かれていないと思って、度々取りました。

あるとき、おじさんは後ろを向いて、身体を捻って確認をしました。急いで逃げました。おじさんは何も無かった如くそのまま行きました。

おじさんは気が付いていないと思い、その後も粘土をかすめ取りました。そのときはそのように思いましたが、大きくなってから、はたと気が付きました。

実はおじさんは、そんなことは端から知っていたのです。知っていたのに飄々と歩いていました。一度は大げさなしぐさで振り向いて見せました。

当ブログは見つからなかったと思って、その後も粘土をかすめ取りましたが、おじさんは百も承知でした。おじさんは強面の顔をしていましたが、実はやさしいおじさんだったのです。

粘土を取るのを大目に見ていたのです。いい気になっておりましたが、後になってやっと気が付きました。戦後の貧しい社会に、こういう暖かさがあったということをしみじみと感じました。

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2015年3月13日 (金)

水の展示館

今日の中日新聞地方版に、万場(ばんば)調整池にある「水の展示館」が、3月31日で閉鎖されるという記事がありました。

閉館理由は来場者減と老巧化ということです。そこで、この「水の展示館」を見に行って来ました。

「水の展示館」は平成4年に万場調整池完成と同時に開館し、ジオラマや映像などを備えた学習施設です。他には誰も居なかったので、丁寧な説明を聞き、資料も多くもらいました。

Dsc08328豊川用水ジオラマ

Dsc08330映像コーナー

Dsc08331DVD視聴コーナー

豊川用水のことを書きます。万場調整池は豊川用水の水が少なくなったとき、調整するための広大な池です。調整池は他に6つあります。

豊川用水は昭和43年に20年の歳月をかけて完成しました。用水は豊橋、渥美半島、蒲郡、湖西などに送られています。農業、工業など格段の発展をもたらしました。

Toyogawayousui_2
豊川用水の流れ

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家庭用、プール、公園なども潤いをもたらしました。豊川用水の水源は宇連ダム、新豊根ダム、佐久間ダム(夏季のみ)、大島ダム、また寒狭川、大入川の導水路です。

万場調整池は一周3.3kmで歩くのにはちょうどよい距離です。周囲には公園、遊具、展望台、親水施設など設けられています。

Dsc08334万場調整池

Dsc08336取水塔 

寒い日でしたがジョギング、散歩など15人ほどの人がそれぞれ楽しんでいました。

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2015年3月11日 (水)

東日本大震災 50

東日本大震災からちょうど4年が経ちました。東日本大震災のブログからすっかり遠ざかっていました。

当ブログがこのカテゴリーを始めたのは、東日本大震災発生当時、感動場面が多く、この感動を多くの人と共有したいと思ったからです。

震災発生時、日本中が一丸となりました。被災地のことをまず優先し、たとえ電車が遅れようと物が足りなくなろうと、不満を言うような人はありませんでした。

数え切れないほどの感動場面がありました。また、被災地の人たちの秩序ある行動、自己犠牲の心は世界に感動を与えました。

当ブログはこのような素晴らしい感動を持続したいという思いと、東日本大震災のことが薄らいで行かないよう自分への戒め、として書いております。

東日本大震災死者・行方不明者数が減って行くようにと願ってこれまで見てきました。

2011年  3月 28,000人   大震災直後
2011年  6月 23,000人
2011年  9月 19,867人   半年後
2011年 12月 19,334人   
2012年  3月 18,998人   1年後
2012年 10月 18,649人   1年半後
2013年 11月 18,534人   2年半後                           2014年  9月 18,490人   3年半後                                                               2015年  3月 18,475人   4年後

2015年  9月 18,464人   4年半後(後日追加)                               

これからも少なくなることを願っています。何もできませんが、被災地を、そして3.11という日を決して忘れないようにし、応援する気持ちを持ち続けて行きたいと思います。

これは全て中日新聞に掲載された人数です。

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2015年3月10日 (火)

吉祥山(戦中戦後供出)

寒い日,暖かい日が繰り返しています。今日はたいへん寒く、あられも降りました。休憩舎のあるAコース登山口から登りました。

Kitijouakosu2

歩きやすい山道でいつも登山者が来ています。5人ほどに逢い、頂上に着きました。雲があり富士山や南アルプスは見えません。宇連山や明神山は見えます。

Dsc08324左から宇連山、鳳来寺山、明神山

頂上からは別の道を下りました。合計1時間40分の里山歩きでした。

 

別の話を書きます。今日3月10日は東京大空襲70年です。B29爆撃機300機が東京下町に焼夷弾を無差別投下し、10万人が死亡しました。

以前のブログで、戦争中、金属の供出について触れましたが、3月7日の中日新聞に、犬についても供出があったことが1面の中日春秋欄にありました。

戦争末期 「畜犬献納運動」 と称して犬が供出され、その皮が兵士の防寒具として使用されたということです。

供出とは政府が民間の物資・農産物などを半強制的に売り渡させることをいいます。売り渡させると言っても大変低い価格でした。無料供出もありました。

供出はいろいろありました。全国的に行われたものもあり、一部地域で行われたものもありました。これまでに触れたことも含め挙げてみます。

・食糧管理制度(昭和17年)・・・米や麦などの食糧の価格や供給等を、政府が管理する制度。一日一人、二合一勺の米を残して、農家に供出を命じた

・金属類回収令(昭和18年)・・・・金属不足を補うため、民間所有の金属類回収を行う目的で制定された

・畜犬献納運動(昭和15年)・・・軍用犬、防寒用毛皮として供出

・松根油緊急増産対策(昭和19年)・・・航空機の燃料として採取

・木材の供出・・・防空壕の支え木、鉄道枕木、などに使われた

・勤労奉仕・・・埋め立ての土運び、橋の建設の杭打ち(ヨイトマケ)などをした

・石の供出・・・道路補修や建設資材として使われた

・牛、馬、豚の供出・・・食料として供出

・食料の供出・・・米麦以外にも芋、野菜など供出

食糧管理制度は戦後も長い間続きました。勤労奉仕は戦後しばらく後でしたが、中学生のときに出て、山の裾から、海岸埋立地まで、トロッコで土を運ぶ作業をしました。

 

 

 

 

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