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2015年5月

2015年5月30日 (土)

神石山のササユリ

5月26日の日に蕾だった神石山のササユリが咲いたか見に行って来ました。4本が咲いていましたが、まだ早いようです。

P5300017松林に咲くササユリ

P5300005ササユリ蕾

P5300004ササユリ1

P5300006ササユリ2

P5300010ササユリ3

まだ蕾が多く、1週間ほど後が一番良いときと思われます。

またこの時期、早苗の植えられた水田を見るのが好きです。里山を映し、風に揺れる早苗を見ながら、水田の中を歩くと懐かしい気持ちになります。

Dsc07148久留女木棚田

Dsc07142久留女木棚田早苗








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2015年5月29日 (金)

続 満蒙開拓平和記念館

昨日の満蒙開拓平和記念館の続きです。戦争が終ったのは昭和20年8月15日、平和記念館のある阿智村の満蒙開拓団215名、戸数79戸が村を発ったのは昭和20年5月1日でした。

終戦のたった3ケ月前です。満蒙開拓団は家族で行きましたから当ブログと同じ年代の人が多くおりました。当時5歳くらいです。身につまされます。

終戦の3ケ月前に何故満州の地に旅出ったのか、一つは国策として村単位での勧誘がありました。

もう一つは真実が伝えられていなかったからと思います。土地は略奪した土地であり、戦況も厳しい状態でした。

満州国は、日本軍が中国北東部に、武力で建設した独立国です。そこに約27万人の開拓団員が送り込まれました。

開拓団員は長野県が突出して多く3万3千人、次が山形県ですが、長野県の半分ほどです。長野県が多かったのは養蚕業が衰え、耕す土地も狭かったからです。

昭和20年8月9日、満州へのソ連侵入により、悲劇が始まりました。記念館には、その様子を語る映像や書き物があります。その悲惨極まりない状況は現実にあったこととは思われません。

当ブログも戦後70年を生きてきて、初めて知ることが多く、胸が締め付けられる思いでした。残留孤児の皆さんには末永い幸せを祈るのみです。

こういう人たちがいることを決して忘れないようにしたいと共に、「望郷の鐘」の中国残留孤児の父 山本慈昭さんには、ただ頭が下がるのみです。

残留孤児と肉親などとの再会は昭和48年~昭和55年の8年間で実に177組も実現いたしました。

※ 「望郷の鐘」は出版(しなのき書房)され、映画化されています。 

追記

5月31日の中日新聞朝刊に、偶然、満蒙開拓団の記事がありました。

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2015年5月28日 (木)

満蒙開拓平和記念館

一度訪ねたかった長野県下伊那郡阿智村の「満蒙開拓平和記念館」を見学しました。家からの距離は120km、2時間半ほどで行けました。

P5280002満蒙開拓平和記念館入口

P5280001満蒙開拓平和記念館

昭和11年から昭和20年までに幻の国「満州国」に、国策として、約27万人が送り出されました。「満蒙開拓団」です。

Dsc08570満州国

20町歩(東京ドーム4個分)の地主になれると夢を抱いての新天地でしたが、開拓民が入植した土地は、その6割が現地の人から強制的に買収した農地であり、開拓地とは名ばかりでした。

そして昭和20年8月9日、突然のソ連侵攻で戦場となり、開拓団の人たちは広野を逃げ惑います。

終戦後も日本に帰ることができず、飢えと寒さで大勢の人が亡くなり、シベリア抑留となり、また残留孤児となりました。

この人たちは苦労の限りをし尽しました。①国策の開拓団 であったと同時に、②侵略者 でもあったわけです。

そしてもう一つの苦労を今日知りました。帰国した人たちは、周りから③満州がえり と言われました。国策であったのに自己責任のように言われました。

満州の死者20万人の4割を開拓団員が占めるということです。子供、親、兄弟を目の前で失い、残留孤児となりました。

希望を抱いて渡った満州でしたが、その後は悲惨で苦労の連続でした。
この人たちに幸せが訪れない筈がありません。

記念館内部は撮影禁止なので写真はありません。

追加

翌日の「続 満蒙開拓平和記念館」 も見て下さい。

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2015年5月26日 (火)

初釣りで釣果

この時期になると黒鯛、キビレ、セイゴの大物が上がるようになります。様子見も兼ねて初めて釣りに行ってみました。

何と39cmのセイゴが釣れました。なかなか釣れるものではありません。他に20cmほどのものも釣れました。昨年は全く釣れませんでした。

P5260001

当ブログは延べ竿しか使えません。毎年5.4m(3間)の竿ばかり使っています。

道糸は2号、ハリスは1.7号で大物が来てもよいようにはしておきました。針は5号、電気浮き釣りでエサは青虫です。

午後7時ころ釣り始め、まだ明るさの残る7時半ごろ釣れました。8時ころまでの1時間ばかり釣りましたが、初釣りにしては最高の釣果でした。

他に釣り人は全くいませんでした。釣りというのは釣れるということを聞いてからでは遅いようです。

さあ今年も釣りの季節が始まりました。

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神石山(ホタル)

5月23日に吉祥山に行ったとき、ササユリが咲いていたので神石山にも咲き始めているのではないかと行ってみました。

咲いている花はありませんでしたが、蕾はたくさんありました。

P5260019ササユリ蕾

P5260022ササユリ

昨年は6月10日に行ったところ、たくさん咲いていました。これからだと思います。この時期の山道歩きを楽しませてくれます。

頂上までは40分、富士山は見えません。

P5260013神石山頂上

P5260012頂上から浜名湖

別の話を書きます。

当ブログが小学生の頃は蛍がいました。小川があればだいたい蛍はいたものです。

夜になると連れ立ってよく蛍を捕りに行きました。持って行くのは麦からの束と蛍かごです。蛍かごは麦からで編んだのを持って行ったこともあります。

麦からの束は何に使うかというと、飛んでいる蛍を麦からの束で払い落としたり麦からに着かせるためです。

麦からは茎がやや硬いので丁度良いのです。竹箒や庭箒でもよいのです。草叢にも居るのでそれは手で捕ります。

ただ草叢にいる蛍をマムシと間違えるなということを何回も注意されました。見たことはありませんが、マムシの目は夜光っているということです。

「ほーほーホータル来い。あっちも水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ」などと歌いながら捕りました。子供でもすぐに捕れました。

家に持って帰ってその光を楽しみました。蛍かごを木に吊るして置いたり、また蚊帳の中に放って遊んだりしました。

しかし翌日になると大抵の蛍は死んでいました。点滅はしませんが死んでも光っています。

家の庭にも時々飛んできました。

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2015年5月25日 (月)

渋川つつじ

浜松市北区引佐町渋川の「渋川つつじ」がちょうど見頃で行って来ました。渋川つつじは一般のツツジより遅れて咲き、ここだけに群生しています。

つつじの群生地は山の上となっており、15分ほど登ります。

Dsc08564つつじ公園のある山

Dsc08547登り口

渋川つつじは静岡県の天然記念物で2~5mくらいの高さとなります。

Dsc08553渋川つつじ1

Dsc08550渋川つつじ2

Dsc08558渋川つつじ3

Dsc08555渋川つつじ4

渋川茶の新茶サービスがあり、五平餅など売る店も出ていました。

動画にアップしました。

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2015年5月23日 (土)

吉祥山(バリカン)

吉祥山をBコースより登りました。

Kitijousinnkosu

Aコース駐車場はいつも車がいっぱいですが、Bコースは空いています。2台がありました。途中でAコース登山道と出合い45分で頂上に着きました。

P5230001頂上

遠くの山は見えませんが、近くの山は見えます。

P5230002左より宇連山、鳳来寺山、明神山

あまり思っていませんでしたが、ところどころササユリが咲いていました。

P5230006ササユリ

P5230009ササユリ

帰りは今まで歩いたことのない道を通りました。この道のあることは知っていましたが、登ったところとかなり離れてしまう所に出てしまうと思い、通りませんでしたが、それを覚悟で下りました。

なんとこの道は登ったところのBコース登山口に出ました。しかも林の中の道で階段もなく、ササユリもここで咲いていました。この登山道をこれからも通りたいと思います。

別の話を書きます。

戦中戦後の頃は誰もが坊主頭でした。丸坊主にするには家でバリカンで刈っていました。

これは中学まで続きました。5分刈りだの言ってはおれません。またそんなしゃれっ気もありませんでした。ときには虎刈り(まだら模様)でした。

とにかくこのバリカンの痛いこと、いつも涙が出て来ました。

「バリカン」の画像検索結果
バリカン ネットで拝借しました

家で床屋と言うと”またか”という思いでした。恐らくバリカンが切れなかったことと思います。

もう一つバリカンを握るスピードとバリカンを進めるスピードが合わないと髪を引っ張ってしまい痛いということになります。この痛さが親には分からなかったかも知れません。

一度行いだしたら、途中で止めるわけにも行きません。新聞紙を敷き、髪の毛が落ちるのと一緒に涙も落ちました。

バリカンは普段は錆びないように缶詰の空き缶に灯油を入れ、その中に浸けておきました。

顔も一緒に剃りました。安全カミソリで剃りました。こちらは痛くもなく途中で寝てしまったこともありました。

この頃は多くの家が自分の家で行なっていました。小学生・中学生で髪を伸ばしている子はありませんでした。これが普通でした。

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2015年5月22日 (金)

初立池のしょうぶ

初立池(はったちいけ)は渥美半島の先端にあり、豊川用水の末端の調整池です。

今は全面的な改修工事が行われており、水が抜かれておりました。この池畔に小さいながらも、3ケ所にしょうぶ園があります。

P5220020初立池のダム

花の色は紫、黄、白の3種でしっかりと手入れがされています。

P5220013しょうぶ1

P5220012しょうぶ2

P5220001しょうぶ3

P5220003しょうぶ4

P5220004しょうぶ5

P5220011しょうぶ6

この池畔には豊川用水の建設の際に、伊良湖東大寺瓦窯跡が発見され、保存されています。

P5220017東大寺瓦窯跡


P5220015東大寺瓦窯跡説明版

また散策路など設けられ、憩いの場となっています。

ホームページしょうぶもよろしく。

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2015年5月21日 (木)

茶臼山芝桜

豊根村の茶臼山に芝桜を見に行って来ました。津具から茶臼山高原道路を行きましたが、駐車場に入る車で渋滞です。

1時間20分掛かりました。リフトで萩太郎山に行きます。午後1時半頃だったのでリフトはそれほど長い行列ではありません。

頂上からは南アルプスが見えました。もう南アルプスの雪は大分少なくなっています。

Chausuminamiarupusu萩太郎山から南アルプス

芝桜の開花状況は7割ということですが、早咲きもあり、いろいろです。

P5210013芝桜 中央付近は早咲きで盛りを過ぎている

P5210025芝桜

P5210027後ろは茶臼山

P5210037芝桜

天気が良く、花と山を楽しめました。帰りは歩いて下りました。

動画(茶臼山芝桜)もアップしました。







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2015年5月13日 (水)

富士見岩(戦後の頃のゴミ)

湖西市のおちば公園(一本杉公園)から大知波峠、富士見岩を一周して来ました。

Fujimiiwaootibatouge2

登山口辺りはみかんの花の大変良い香りがします。

Dsc08510みかんの花

大知波峠には50分ほどで着きました。浜名湖がよく見えます。

P5130009大知波峠から浜名湖

さらに20分ほどで富士見岩に着きました。送電鉄塔下の木が切られ、展望が良くなっていました。冬には見えた富士山は霞んでいて見えません。

P5130019富士見岩から浜名湖

若葉の中を歩き、一周して登山口に戻ってきました。2時間でした。

今日は戦中戦後の頃のゴミについて書きます。

その頃はプラスチックの様な化学製品はありませんでした。燃やすにしても有害物質の出るものはありませんでした。

まず生ごみは掃き溜めに捨てました。掃き溜めの中にはいろいろな生物がいて、分解してくれます。腐れば畑で肥料として使いました。残るものはありません。ミミズもおり恰好の釣り餌でした。

紙、木、竹などは釜土で燃料として使いました。不要になったものを普段蓄えておきました。

下肥は肥料となりました。動物→植物→動物→植物とごく自然なサイクルです。下肥は貴重な肥料でした。

金属のゴミは当時はあまりありませんでしたが、缶詰の空き缶などは埋めました。地面の中でやがて腐って土に還ってゆきます。

ガラスや瀬戸物は捨てる場を作っておきました。やがては粉々になり、土となります。

あさりもよく食べましたが、その貝殻は道の凹んだ所に捨てました。どこの家でもそのように扱っていました。粉々になりやはり土に還ってゆきます。

ゴミはほとんどのものが自然の中に還ってゆきました。動物と植物の間に循環がありました。

化学製品が出てきたころから、このサイクルが崩れてきました。当ブログが中学生のときナイロンが現れました。

その頃は貴重なものでした。やがて多く出回るようになり、燃やしておりました。

その後は新しい化学製品が続々と現れて今に至っています。大変便利ですが、心して扱わねばと思っています。

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2015年5月12日 (火)

平尾山(七夕まつり)

大原調整池のゲートから林道を歩き、鉄塔分岐、平尾山と一周して、また林道をゲートまで戻って来ました。2時間半の歩きでした。

Ooharachouseihiraoyama2

天気は曇っています。帰りの林道で雨となり、雨具を着けました。平尾山は豊橋、三ケ日、新城の境で、豊橋では一番高い山です。

Dsc08508平尾山頂上

鉄塔分岐付近では浜名湖が見えましたが、景色ははっきりしません。

Dsc08506浜名湖

こんな日に山を歩いている人はいませんでした。

別の話を書きます。戦後の頃、家庭で行っていた行事に七夕祭りがあります。

ほとんど、どこの家でも行っていました。ササは3mほどの結構大きなものを使いました。ササは当時は簡単に手に入りました。

短冊をこよりでササに吊るすのですが、短冊は買ってきました。こよりを撚るのは難しく大人に撚ってもらいました。

先ず短冊にいろいろ字を書きます。この字を書くには墨を摺って書きますが、これがおもしろい方法でした。

墨を摺る水は里芋の葉に溜まった露を使います。里芋の葉は器のようになっていて、たいていの葉に露が溜まっています。

これは字がうまくなるとか、いろいろ理由があったようですが、季節と一体になって何か素朴な感じがしました。

色とりどりの短冊に好きなことを書きます。短冊以外に吊るしたものは習字紙に切りこみを入れ網の形を作って、吊るしました。四角い色紙も使いました。

ササの一番下には赤いほうずきちょうちんを吊るしました。長いこと懸りやっと出来上がり、庭の木に縛りつけました。

小さな台を用意し、まくわうり、茄子、胡瓜など飾りました。夜になってちょうちんに蝋燭を燈すと雰囲気が一層よくなりました。

天の川を渡り、織り姫とひこ星が逢うという夏の行事です。花火をしたり、七夕の歌などうたって楽しみました。

苦労して作った七夕飾りも1日で終わりです。作ったのは前日です。

翌日は近くの川に流しに行きました。川に流すなど今では考えられないことです。七夕飾りは他にも流されています。

当時は川には他のものも流しました。こんな川ですが魚はたくさんいました。誰かが回収していたと思われます。川にも浄化される力がありました。

今では天の川も見えづらくなり、川の浄化力もなくなってしまいました。寂しいことです。

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2015年5月 6日 (水)

浜松フラワーパークのふじ

浜松フラワーパークのふじは平成25年4月浜松フルーツパークから移植されました。今年は2年目となり、ふじの枝も房も伸びて来ました。

今日は連休の最終日、大変賑わっています。白ふじの棚は見頃です。鉢植えの白ふじや紫ふじはやや見頃が過ぎた感じです。

P5060016ふじ1

P5060020ふじ2

P5060022ふじ3

P5060025ふじ4

P5060029ふじ5

また花は移り変わって行きます。

動画にアップしました。














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三岳山(端午の節句)

フラワーパークのふじを見がてら、静岡県引佐町の三岳山に行って来ました。20分で登れる簡単な山です。高さは466mです。

Mitakesan

頂上は三岳城跡になっています。展望は良く浜名湖や引佐町、浜松市の市街など見渡せます。

Dsc08496頂上

Dsc08494頂上から浜名湖

昨日は端午の節句でした。わが家の戦後の頃の端午の節句について書きます。

端午の節句は新緑のさわやかな季節で、季節感を感じます。戦後と今とで大きく違ってはいません。

こいのぼりは外に立てる家と座敷のぼりの家とありました。わが家は座敷のぼりでした。座敷の飾りは兜、金太郎、馬などもありました。

その頃は親戚付き合いも濃く、贈ってもらったようです。お互いにそのような風習であったようです。

座敷のぼりは鯉のぼりや鍾馗(しょうき)様の旗などセットになっていました。それを組み立てるのが楽しみでもありました。

端午の節句の日に銭湯に行くと、しょうぶの葉が浮かせてありました。葉を裂いて鉢巻きをしました。しょうぶには季節を感じます。

この日は歌にあるように柱に傷をつけて背の高さを印しました。年ごとに付けた傷の跡がずっと残ってゆきました。

家では柏餅を作りました。今では柏餅も年中売っていますが、その頃はこのときだけでした。よしまき(ちまき)も作り、飾りました。

また新聞紙を兜に折り、かぶって遊びました。兜の折り方は今でも覚えています。

端午の節句は特に季節を感じます。空に泳ぐこいのぼりは、今もどこにでも見られ、さわやかな気持になります。

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2015年5月 2日 (土)

富幕山(戦中戦後の冷房)

ゴールデンウィークの最中で、今日は全国的に快晴です。久し振りに富幕山に行って来ました。

奥山高原から登り、40分で行ける簡単な山です。子供連れの人がたくさん来ていました。新緑の中を気持ちよく歩けます。今は花はほとんど見られません。

展望台からは富士山が見えるのですが、やっぱり駄目です。冬は見えるのですが、これからもほとんど見えないでしょう。

5月6日はもう立夏です。戦中戦後の冷房について書きます。

その頃の冷房の方法といえばうちわです。扇風機は大分後になってからでした。

団扇は買うことはほとんどなく、商店が夏のサービスでくれました。団扇の裏には商店名が入っているのがほとんどでした。翌年も使うので溜まる一方です。

夏には団扇はどこへ移動するにも持って行きます。改まったところに行くようなときは扇子でした。

他には自然の冷房を利用しました。まず打ち水です。庭に撒いたり表の通りに撒きました。水が蒸発するとき熱を奪いますが、打ち水は見ただけでも涼しさを感じます。

夕刻になると縁台を表の通りに出すのが、何時もでした。近所の子たちが集まって来てこれが楽しいものでした。花火をしたり縁台将棋をしたり星空を眺めたりしました。この頃は星がよく見えました。

家の中にいるときは縁側に出て涼みました。その頃は庭にも蛍が飛んできました。

寝るときには蚊帳(かや)をつりました。涼しくなるということではありませんが、蚊が多かったのです。蚊帳を見ると涼しさを感じます。

Photo蚊帳 ネットで拝借しました

日中はすだれやよしずを利用して、風は通るようにし、日の当たるのを防ぎました。

自然を利用しての冷房ばかりでしたが、結構、これらでしのげました。

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