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2015年12月

2015年12月28日 (月)

浜名湖サイクリングロード(舞鶴引揚記念館)

富士山が見えるのではないかと、浜名湖サイクリングロードを自転車で走ってきました。瀬戸より出発し、浜名湖側から猪鼻湖側を走る一周コースです。

Hamanakohokubujitennsha

はっきりしませんでしたが、富士山は見えました。舘山寺も対岸に見えています。

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富士山

Dsc09165舘山寺

一部を除き、サイクリングロードなので安心して走れます。一周時間は1時間40分でした。

 

別の話を書きます。
12月25日中日新聞夕刊に「舞鶴引揚記念館」の記事がありました。当ブログも平成16年(2004年)3月に訪問しています。

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舞鶴引揚記念館の入場券

記念館訪問者数は1991年に20万人を越えていましたが、、2012年には7万人を割ったということです。訪問者の中には引き揚げを、沈没船引き揚げと、勘違いする人もあるということです。

さて、「引き揚げ」とは終戦(昭和20年8月15日)後、海外に残された日本人を帰国させることを言います。帰国させる人数は、一般邦人・軍人合わせて600万人以上でした。

帰国事業は昭和20年9月28日から、舞鶴港をはじめ、国内の十数港を引揚港に指定して開始されました。舞鶴港は昭和25年以降は国内唯一の引揚港として、昭和33年9月の最終船入港までの13年間、重要な役割を果たしました。

初めの頃は、舞鶴港の名や、興安丸の名を、耳にしない日はありませんでした。ラジオの「尋ね人」はいつも放送されていました。引き揚げ船は他にも31隻ありました。

しかし、その帰国は筆舌尽くし難い状態でした。舞鶴港では、主として旧ソ連邦、中国などの大陸からの引揚者を
迎え入れました。

一方、大陸に残された日本人およそ57万人がソ連へ送られ、その内の約47万
2千人がシベリアの収容所で、長い年月辛い抑留生活を強いられました。

舞鶴港では、引揚船が入港するたびに、肉親との再会、そして、いまだ帰らぬ我が子・夫を待つ婦人の姿など悲喜こもごもの光景がありました。

00003

上の写真の説明

誠に申し訳ありませんが、この写真はネットで拝借させていただきました。

旧満州からの引き揚げは混乱をきわめ、多くの引き揚げ孤児たちを生み出しました。

昭和21年12月5日、品川駅に引き揚げ孤児の第2陣33人が到着ときの写真です。

先頭の少女は両親の遺骨を抱いていました。引き取り先が決まるまで、上野の同胞援護婦人連盟ホームに収容されました。

0002昭和21年6月 品川駅 (アメリカ人撮影)  故郷に向かう列車に乗り込む

舞鶴港は昭和33年まで、66万人の引き揚げ者と16,269柱の遺骨を受け入れました。

引き揚げの史実は過去の出来事として、年々遠ざかりつつあります。

しかし、その苦しみと悲しみ、平和の尊さを忘れ去ってはなりません。

ところで舞鶴引揚記念館は、今回 リニューアルオープンし、戦争の理不尽さを伝え、「保存」から「発信」へとかじを切って行くということです

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2015年12月26日 (土)

富幕山(真岡郵便電信局事件)

雲が少しありますが、富士山が見えるのではないかと、静岡県引佐町の富幕山(とんまくやま)に行って来ました。

 

 

Tonmakukougen

 

奥山高原登山口から登ります。他にも登山口はいくつかありますが、ここからでないと富士山は見えません。頂上では見えなくなります。

 

途中にある展望台が富士山の見える絶好地です。果たして富士山は見えました。

 

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展望台からの富士山

 

頂上にはマウンテンバイクで来たグループがいました。他に子供達も来ており、それぞれ冬の山を楽しんでいるようでした。

 

 

 

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頂上休憩舎で憩う人たち

 

 

 

 

 別の話を書きます。終戦のとき、樺太(サハリン)で起きた事件です。

 

 

 

 

 以前に北海道の稚内公園に行ったとき、下の写真のような碑がありました。そのとき当ブログは、この碑がどういうものか分りませんでした。

 

 

Photo
稚内公園にある碑(2008.7.10撮影)

 

 

 

 その後調べたところ、これは9人の電話交換手の乙女たちを慰霊する碑でした。終戦直後樺太で「真岡郵便電信局事件」という事件が起きました。これは「北のひめゆり事件」とも呼ばれています。

 

 

 

 当時、電話は直接相手にかけることは出来ず、一度電信局に掛けてから相手に繋いでもらう方式になっていました。殉職した17歳から24歳の乙女たちは電話交換手でした。

 

 

 

 

 樺太は1905年日露戦争勝利により、樺太島の南半分はロシアより日本へ割譲され、日本人が多く住んでいました。

 

 

 

 

 1945年8月15日に戦争は終わりましたが、樺太ではソ連軍が侵攻を止めず戦闘が続いていました。16日には婦女子の引き揚げも始まっていました。

 

 

 

 8月20日早朝、ソ連軍が樺太・真岡に侵攻を始めました。真岡は市街戦が激化し、いよいよ真岡郵便電信局の電話交換手たちも、覚悟を決めるときが来ました。

 

 

 

 乙女たちは、北海道の郵便局に、碑にあるような言葉を残し、青酸カリやモルヒネで自決しました。12人中9人が死亡、3人は救出されました。

 

 

 

 何ともむなしい事件です。戦争が終ってから、無駄に命が失われてしまいました。乙女たちの純真無垢な心が偲ばれます。

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2015年12月24日 (木)

座談山(三船殉難事件)

明け方まで降っていた雨も止み、青空が広がっています。この天気なら富士山が見えるだろうと、座談山(ざだやま)に行って来ました。
Zadanyama271

 

まだ木から滴の落ちる道を歩いて、尾根道に出ました。豊橋市街地の向こうに太平洋が広がっています。

Dsc09137 市街地の向こうに太平洋

座談山へ着きました。素晴らしい富士山が見えました。麓の方まで雪があります。里山からこのように富士山がはっきり見えたのは夏以降初めてです。これからはよく見えるようになると思います。

Dsc09142 座談山から富士山

1時間50分ほどの歩きでした。

 

別の話を書きます。
終戦のとき、北海道留萌沖の海上で起きた三船殉難事件(さんせんじゅんなんじけん)です。三船殉難事件とは、引揚者を乗せた引揚船3隻(小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸)が潜水艦の攻撃を受け、1,700名以上が犠牲となった事件を言います。

戦争も終わった1945年8月22日、北海道留萌沖の海上で、樺太からの婦女子を主体とする 引揚者を乗せた引揚船が、ソ連軍によるものと見られる国籍不明の潜水艦からの攻撃を受け、小笠原丸と泰東丸が沈没、第二号新興丸は大破して、多大の犠牲者を出した事件です。

小笠原丸(1,404トン)は1945年(昭和20年)8月20日、引揚者1,500名ほどを乗せて樺太・大泊から北海道・稚内に向かいました。そのうち900名は稚内で下船、600名の乗客と約100名の船員・軍人は小樽に向かいました。その途中の8月22日、増毛沖の海上で国籍不明の潜水艦の雷撃を受け撃沈しました。乗員乗客638名が死亡し、生存者は61名でした。

第二号新興丸(2,700トン)も樺太・大泊からの引揚者約3,400名を乗せ小樽へ向っていましたが、8月22日留萌沖の海上で、国籍不明の潜水艦からの魚雷をうけ、229名が死亡し、171名が行方不明となりました。

泰東丸(880トン)も8月22日、同様に樺太・大泊からの引揚者を乗せて小樽へ向かっていましたが、留萌沖海上で、国籍不明の潜水艦の砲撃を受け、沈没しました。乗員乗客約780名中、667名が死亡しました。

戦争も終結してからの事件です。何とも痛ましくてやり切れません。

北海道稚内市稚内公園に行ったとき、下の写真のような碑がありました。これは「氷雪の門」と言い、戦争と限らずに、樺太で亡くなった全ての日本人を対象とした慰霊碑です。

Photo 氷雪の門

樺太の南半分は1905年から1945年まで日本の領土でした。今ではそんなに自由に行けるわけではありません。

樺太に一番近いこの稚内の岬で、このように犠牲になった人たちが慰霊をされています。安らかであることを願わずにはいられません。

 

 

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2015年12月19日 (土)

猪鼻湖一周(麻山事件)

浜名湖の北にある猪鼻湖を自転車で一周して来ました。自転車は折り畳み式で楽に車に積めます。瀬戸から左回りにサイクリングロードを行きました。

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天気はよいですが、風があり、風に向かっているときは力が要ります。左に湖面を見ながら行くと松の並木があります。ここら辺りはたいへん景色の良いところです。

Dsc09127 松並木の道

やがて東急リゾートに出ます。リゾートの中は道がわかりにくいですが、道に案内が書いてあるのでそのように行けば、またサイクリングロードに出ます。
猪鼻湖の北の方に出ると、湖面に鴨が浮いています。しかし、今年は鴨の数が少ないようです。どうしたのでしょう。

Dsc09131

出発してきた瀬戸が遠くなりました。ここまで50分ほどです。

Dsc09130 出発点の瀬戸方向を見る

一周して元に所に戻ってきました。時間は1時間50分ほどでした。距離は14kmです。サイクリングロードと歩道があるので、走りやすくなっています。

満蒙開拓団に関することを書きます。
 5月28日5月29日に「満蒙開拓平和記念館」を見学したことを書きましたが、関連する内容です。
 満蒙開拓団の人たちは苦労の限りをし尽しました。その中の1つに「麻山(まさん)事件」があります。
 この麻山事件は北海道哈達河(ハタホ)開拓団421人が、満州国麻山で集団自決した事件です。
 終戦1週間前の8月9日に、満州国境を侵攻してきたソ連軍に追い詰められた哈達河開拓団は、鉄道も使えず、徒歩で80km先の内陸の街を目指して避難を開始しました。
 当時開拓団の壮年男子は徴兵され、女性や子供がほとんどでした。8月12日、麻山という集落に来たとき、前後をソ連軍に挟まれ、頼みの日本軍からも見捨てられた状態にありました。
 わずかに残った老人や少年が銃で介錯をし、玉砕しました。この状況はわずかに生き残った開拓団員や、翌日足を踏み入れた元日本軍兵士によって明らかにされています。
 生き残った開拓団の一人(当時8歳)は「母親、兄2人、妹2人を失い、もう1人の妹と共に中国人に発見され、養育された。」「私も妹も恐怖で死んだふりのまま動けず、最初はお互いのことを死んだと思っていた」と言うことです。昭和53年に復員船で帰国しました。
 足を踏み入れた元日本軍兵士は「夜明けの麻山中腹に、日本のある東の方角に頭を向けて倒れた哈達河開拓団の無残な姿があった。女性と子供の遺体ばかりだった。」「のちにシベリアに抑留され、3年間過酷な生活を送った」ということです。
 当ブログは、この人たちと同年代で身につまされます。胸が締め付けられる思いがします。この人たちに幸せが訪れない筈はありません。
 この麻山事件についてはテレビ、新聞、書籍、ネットなどで報道されています。

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2015年12月16日 (水)

大原調整池散策(日の出と日の入り)

大原調整池(五葉の森)周辺には散策路が多くあります。その一部を歩いて来ました。

Ooharasansakunomiti

先ず、車に乗りやすい折り畳み自転車を持って行き、湖岸を一周しました。紅葉がきれいですが、カメラを忘れてしまいました。

 Dsc09114 折り畳み自転車 折りたたんだ状態

また元のところに戻って来、今度は散策路を歩きました。散策路は沢山あります。「散策の小径」というのを歩いたことがなかったので、その路を行きました。

紅葉が大変きれいです。枯葉のはらはらと散る中を歩くのも良いものです。「秋葉の小路」に出、一周して元の所に戻ってきました。歩いたのは1時間ほどでした。

別の話を書きます。

早いもので、1週間後の12月22日は冬至です。陽の沈むのが早くなったと思っていたら、もうその峠は過ぎたようで、今は陽が沈むのが遅くなっています。

場所によって違いますが、12月2日から12月10日の陽の入りの時刻は、16:40で今日(12月16日)の陽の入りの時刻は、16:42です。

日の出の時刻はまだ遅くなって行きます。一番遅いのは1月2日から1月14日で7:01です。初日の出の時刻はちょうど7時です。これは名古屋での時刻です。

陽の一番短い冬至の日は、陽の出の時刻は6:57、陽の入りの時刻は、16:44となります。

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2015年12月 8日 (火)

再び大和(小槌)の大イチョウ

再び大和の大イチョウを訪れました。12月1日のときは葉が緑だったので、もう1度来ようと思っていました。
葉は黄色になっていました。

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動画にUPしました。
この大イチョウが打ち出の小槌の形になったのは、雷が落ちたからと言うことです。
今日12月8日は日米開戦の日です。昭和16年ですから、74年が経ちました。当ブログは当時1歳5ケ月でしたから、全く知りません。この日は忘れない日でありたいと思います。

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2015年12月 7日 (月)

神石山(普門寺紅葉)

神石山に登り、普門寺の紅葉を見て来ました。今年の紅葉は遅いようなので、その方が良いと思い、いつもの年よりは遅く行きました。

手洗から登り、先ず神石山に行きました。35分ほどで着きました。今日は晴れていますが、富士山は見えませんでした。

Kamiisitearaikouyou

Dsc09102 神石山より浜名湖

神石山からは普門寺に下ります。25分ほどで普門寺に着きました。紅葉は丁度良い時季ですが、色が今ひとつ冴えがありません。

Pc070003 紅葉1

Pc070007 紅葉2

Pc070012 紅葉3

Pc070020 紅葉4

Pc070028 紅葉5

まだ緑のモミジもありますが、今年は今が1番良いころだと思います。紅葉はその年によって違います。

帰りは普門寺峠を通り、一周しました。歩き時間は2時間ほどでした。山と紅葉を楽しんでいる人は他にも何人かいました。

普門寺紅葉を動画にUPしました。

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2015年12月 2日 (水)

石巻山(石巻山・本宮山民話)

石巻山にぶらりと行って来ました。当ブログの家からは10分ほどで行けます。オドリコソウがあり、花の百名山に入っています。

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林道を駐車場まで入りました。ここまで来れば簡単に登れます。登り口は以前は賑わいましたが、今は旅館が2軒です。今日は石巻神社山上社・奥の院に寄ってみました。歴史のある神社です。

Dsc09089 石巻神社山上社

25分ほどで頂上です。近くの山々や街などが見えます。冬の天気の良い日には富士山が見えることもあります。

Dsc09093 頂上から本宮山

Dsc09095 豊橋市街

石灰岩の山で、洞窟や奇岩があります。以前はロッククライミングが行われていたところもありましたが、禁止となりました。

ここから関連した別の話となります。

豊橋の街からは東に石巻山、北に本宮山が見え、親しまれています。両方の山とも小・中・高の校歌に多く歌われています。

Dsc09085 豊橋の街から石巻山

Dsc09083 豊橋の街から本宮山

いまからの話は昔からある話で、当ブログも60年ほど前にも聞いたことがあります。
宝飯郡一宮村の本宮山と八名郡石巻村の石巻山は高さを争いました。

今は本宮山は豊川市一宮町で、高さは789メートル、石巻山は豊橋市石巻町で、高さは356メートルです。高さは歴然としていますが、そこが面白いところです。

両方の山の神様が大喧嘩となりました。そこで、まわりの山々の神様たちが集まり、相談しました。

神様たちは、石巻山と本宮山の頂上に樋をかけ、水を流しました。すると水は石巻山側に激しく流れ落ち、石巻山が負けてしまいました。

そんなことがあってから、石巻村の人々は石巻山が少しでも高い山になるために、小石をもって山に登るとご利益がある、という噂話をつくって言い広めました。

それからは石巻山は小石をもっていけば、願い事がかなうと言い伝わり、小石を持って山に登る人々で賑わうようになりました。

小石は、灯篭にあげたり、鳥居に投げ上げてお参りするとご利益があるということです。

 


               

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2015年12月 1日 (火)

大和(小槌)の大イチョウ

豊川市豊津町に見事なイチョウがあります。高さ、水平方向とも25mほどで、打ち出の小づちの形をしております。当ブログの家から10kmほどのところなので、毎年見に行っています。

Dsc09071 今年の大和の大イチョウ

近いところなので、色着き具合も想像でき、まだ早いとは分かっていましたが、待ち切れずに行きました。

まだ1週間ほど早いようでした。しかし今年は元気があります。枝が勢いよく伸びており、よく繁っています。また打ち出の小槌の形になってきました。

Dsc09072 大和の大イチョウ1

というのも、この木は2009年台風で酷い目に遭いました。当ブログがこのイチョウを初めて知ったのは2008年です。

そのとき以来8年間、この大和の大イチョウを見続けていますが、その最初に見たイチョウが、一番見事でした。

Dsc075152008年のときの大和の大イチョウ(2008 12/4)

台風で枝が折れ、打ち出の小槌が半分欠けたようになってしまいました。しかし徐々に回復して来ました。また打ち出の小づちの形に戻ってきました。うれしい限りです。

Dsc09079 大和の大イチョウ2

Dsc09075 大和の大イチョウ3

Dsc09076 大和の大イチョウ4

このイチョウは、1923年(大正12年)に大和尋常高等小学校の竣工記念として植えられました。今年で92年です。まだそんなに古い木ではありません。

まだまだ繁って行くと思います。より福よかな打ち出の小槌になることを願っています。地元の人たちが手を加えています。また1週間ほど後に見に行きたいと思います。

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