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2016年1月

2016年1月27日 (水)

富幕山(摩文仁の丘)

富幕山(とんまくやま)に行って来ました。静岡県引佐(いなさ)町の奥山高原から登ります。
 

Tonmakuyama

展望台から富士山が見えました。他の季節では条件が良くないと見えません。冬は富士山が見えるので楽しみです。40分で頂上に着きました。
 

Dsc09283 富士山

登山道には僅かに雪が残っていました。冬山を楽しんでいる人も多く、7人に逢いました。

Dsc09284 頂上標識

 
別の話になります。沖縄戦最大の激戦地についてです。
 
摩文仁(まぶに)の丘は、沖縄本島南部、糸満市摩文仁地区にあります。摩文仁の丘一帯は、沖縄戦跡国定公園となっています。沖縄戦最大の激戦地であり、戦跡が多くあります。
沖縄戦末期の1945年(昭和20年)5月、首里にあった日本軍司令部は、島民の避難地であった本島南部に撤退、司令部を摩文仁高地に置いて戦闘を継続しました。

摩文仁の丘一帯は、南下侵攻するアメリカ軍、避難してきた一般住民、撤退・抗戦する日本軍の軍人が混在し、敵味方が入り乱れる大混戦となりました。

日本軍による組織的抵抗は、6月23日司令官が自決したことにより終了しましたが、アメリカ軍は翌7月初めまで掃討戦を続けました。

沖縄は最前線で犠牲となってくれました。沖縄県は日本軍の組織的抵抗が終了した6月23日を「慰霊の日」とし、休日にして摩文仁の平和祈念公園で、沖縄全戦没者追悼式を行っています。内地ではあまり知られておらず、まだ沖縄に充分寄り添っていません。

平和祈念公園内には、国立沖縄戦没者墓苑、平和の礎(いしじ)、黎明之塔、日本各県出身地別の慰霊碑、平和祈念施設などがあります。公園に隣接して沖縄平和祈念資料館、沖縄平和祈念堂もあります。

当ブログも2005年(平成17年)12月に訪問しております。

Photo_3 平和祈念公園

Photo 黎明之塔

Photo_2 平和祈念堂

 

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2016年1月26日 (火)

本宮山(フィリピン戦)

たいへん冷え込んでいますが、風も無く快晴です。本宮山(789m)を歩いて来ました。大変人気のある山で、9時でしたが駐車場は一杯の車です。

Honguusan

雑木林の中の歩きやすい道を行き、ほぼ中間の馬の背岩辺りを過ぎると、雪が積もっています。

上に行くほど、雪も多くなってきました。アイゼンを付けている人もいます。何とか砥鹿神社奥の院に着きました。ここからは真っ白な富士山が見えました。

Dsc09274 砥鹿神社奥の院からの富士山

奥の院辺りは一面の雪です。頂上には1時間50分ほどで着きました。

Dsc09273 一面の雪

Dsc09270 本宮山頂上

帰りは林道を回って下りましたが、思わぬ雪山を楽しむことが出来ました。

別の話を書きます。
 
 戦中戦後の事件・出来事について書いております。1月24日の中日新聞15面にフィリピン戦についての記事がありました。今日はフィリピン戦についてです。
 
 日本は戦時中、特に東南アジアの人たちには大変な迷惑をかけました。フィリピン戦のことはあまり知られていません。
 
 フィリピン戦での総死者数は、フィリピン 111万人、日本 52万人、アメリカ 1万5千人でした。フィリピン人総死者数111万人の犠牲者というのは、国民17人に1人ということになるそうです。
 
 このうち1945年2月~3月のマニラ戦での戦死者はマニラ市民10万人、日本軍1万6千人、米軍千人とされています。
 
 また1ケ月に及んだマニラ戦では、一般市民を巻き込む無差別砲撃でした。国際法上、無差別砲撃は許されていません。犠牲になったのは無防備な市民です。いつも子供や女性など弱いものが犠牲になります。
 
 人命ばかりではありません。首都マニラをはじめ、国土は破壊し尽くされました。街並みの美しさからマニラは「東洋の真珠」と呼ばれていましたが、そのマニラ市街も灰じんに帰しました。
 
 戦後のフィリピン戦犯裁判では、被告の半数以上に死刑が宣告されました。しかし終戦7年後の1953年キリノ大統領による恩赦で、モンテンルパ刑務所の死刑囚を含む108人が帰国しました。
 
 これには「ああ、モンテンルパの夜は更けて」の渡辺はま子の困難を極めた奔走があり、死刑囚の前で歌ったこの曲が、キリノ大統領の心を動かしたということもあります。
 
 このように裁判後のフィリピンは、日本に対して寛容を基調としたものでした。キリノ大統領はマニラ市街戦で自分の妻と娘を失っているにもかかわらずです。
 
 現在のフィリピンは親日的です。フィリピンの人も多く日本に来ています。このような恩を忘れずに、フィリピンの人には親切にし、より友好が深まればと思っています。
 
今日はまた、天皇・皇后両陛下が、フィリピンへの公式訪問と「慰霊の旅」に出発されました。

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2016年1月21日 (木)

富士見岩(ひめゆりの塔)

今日は大寒です。1年で1番寒いときに里山を歩いてみたいという思いがあります。
おちば公園より富士山の見える富士見岩に行きました。

Fujimiiwaoofuku

家を出るときは、気後れしますが、歩くと身が引き締まり爽快です。所々昨日の雪が残っています。

頂上に着きました。麓まで雪をかぶった富士山が見えました。冬の山は富士山が見えるというご褒美があるので楽しみです。

P2010010 富士山

南アルプスも昨日の雪で真っ白です。

Dsc03859 南アルプス

来た道を戻りました。1時間50分ほどの歩きでした。

 
別の話を書きます。戦中戦後の事件・出来事を書いています。「ひめゆりの塔」についてです。当ブログも平成17年(2005年)に訪れています。

Photo ひめゆりの塔

沖縄県立第一高等女学校生徒(含師範学校)222人による「ひめゆり部隊」が看護活動を行っていた最後の場所は、旧陸軍第3外科壕です。      

ここに部隊が移動した6月には医薬品や食糧も底をついていました。6月18日、突如軍より解散命令が下されました。この後、壕より脱出する直前に米軍のガス弾が打ち込まれ、学徒の多くが死亡しました。

ひめゆり部隊は学徒勤労動員令によって従軍していました。それを何の援護も無く、放り出されたのです。年端も行かぬ少女たちでした。こんな無責任なことがあってよいのでしょうか。

 「ひめゆりの塔」は、この壕の上に建てられています。壕の中は傾斜がきつく、この中で泥や雨、砲弾にさらされながら生活していたとは、想像を絶するものがあります。

 生き残った者も、さらに追い込まれ自決したりしました。「ひめゆり部隊」の犠牲者194人のうち、「解散」後の死者が128人であることが示す通り、軍の無責任さが多くの犠牲者を生んだといえます。

 塔の横には「ひめゆり平和記念資料館」があり、生き残った女性が貴重な証言を聞かせてくれます。沖縄戦の背景や日本政府が沖縄を「捨て石」にしたこと、戦争の悲惨さが分かりやすく展示されています。

このように犠牲になった部隊は「白梅部隊」などいくつかあります。「ひめゆりの塔」が有名になっていますが、他にも多くあったということは忘れないようにしたいと思います。

 

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2016年1月20日 (水)

吉祥山(知覧特攻平和会館)

今朝は珍しく雪が積もりました。ここ数年は1年に1度あるかないかです。雪が積もるとうれしくなります。せっかくなので吉祥山に行ってみました。
ゲートのある林道登山口から一周して来ました。

Kitijourindou

ゲート付近は雪が多く積もっています。

Dsc09233 ゲート付近の雪

途中から登山道に入り、頂上に着きました。周りは霧で見えませんでしたが、白一色です。吉祥山では滅多にないことです。

Dsc09250 雪の頂上

10時頃でしたが、足跡一つ付いていませんでした。手や耳は冷えますが風が無いので助かります。帰りは反射板の方に降り、林道を下りました。1時間ほどの歩きでした。

動画にUPしました。

別の話を書きます。
 
昨年の暮れから戦中・戦後の事件や出来事を、付け足して書いております。知覧特攻平和会館について書きます。当ブログも平成15年(2003年)7月に訪問しました。

Dsc09170 知覧特攻平和会館の入場券と会館入口

戦争末期とんでもない戦法が採られました。それは神風特攻隊の戦法です。敵主力艦に機体諸とも体当たりし、命と引き換えに、撃沈させるという戦法です。

太平洋戦争、直前の1941年(昭和16年)、鹿児島県知覧町に陸軍の飛行場が完成しました。当初は教育・訓練を行うことが目的とされていましたが、1944年(昭和19年)以降、戦術が敵艦船へ体当たりを主軸とする特攻に転換されました。

戦争末期の日本軍にとっては、技量を持ったパイロットがほとんど底をついており、質的にも量的にも、日本軍は圧倒的に劣っていました。そこで採られたのがこの無謀で理不尽な神風特攻隊でした。

戦艦への命中が定まらなかったり、体当たりしても、戦艦の上部に被害を与えたのみということが多かったようです。多くの命が失われました。

特攻で戦争に勝てるわけのない事を知りながら、命令で死んでいった若者たちが哀れです。犠牲になるのはいつも下の者です。

知覧特攻平和会館には、写真、遺書などの遺品約4,500点、特攻隊員の遺影1,036柱などが展示されています。写真は撮影禁止です。特攻平和観音像が安置されています。

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2016年1月14日 (木)

座談山(北方領土問題)

よく登る近くの座談山(ざだやま)を歩いて来ました。霞んでいてはっきりしませんでしたが、富士山が見えました。
 
Zadanyama271

浜名湖はよく見えました。1時間50分ほどの歩きでした。

P1240049 座談山より浜名湖

別の話を書きます。北方領土問題についてです。

北方領土問題とは、大戦の末期、日本がポツダム宣言を受諾し、降伏の意図を明確に表明したあとに、ソ連軍が北方四島に侵攻し、北方四島を一方的にソ連領に編入するなどし、現在もなお、不法に占拠し続けていることを言います。

択捉島(エトロフ)、国後島(クナシリ)、色丹島(シコタン)、歯舞諸島(ハボマイ)からなる北方四島は、日本固有の領土です。かっては17000人の日本人が暮らしていました。カニ、サケ、マスなどが豊富に捕れ、漁業で栄えていました。

知床半島から目の前に国後島が見えます。当ブログも羅臼港から国後島を見たことがあります。

Photo 羅臼港から国後島を望む

戦後70年、元島民の平均年齢は80歳を越え、返還運動も勢いを失いつつあります。また、元島民たちの意識も変わってきています。

元島民たちへのアンケーでは「返還されると思う」が、2015年では14%、1991年には63%ありました。そのときには返還は10年以内と答えていました。

しかし今は、望郷の念は強いですが、諦めも強くなっています。ロシアの実効支配はますます強くなっており、ロシア人も1万7000人となっています。

8年前からの四島へのロシアの投資は400億円でした。今後10年間にさらに1200億円投資するということです。2015年12月27日のニュースでは、島に温泉施設や映画館が開設されたことを告げていました。

ロシアの実効支配はますます強くなっています。17000人であった元島民も今は6700人となりました。

北方領土問題の解決は、日ロ両国間の最大の懸案事項です。日本への返還が成り、日本人とロシア人が仲良く暮らせる、そんな日の来ることを願っています。

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2016年1月 8日 (金)

満観峰(対馬丸撃沈事件)

静岡市焼津の満観峰に行って来ました。今年の初歩きです。
この山は4回目になりますが、満観峰頂上からは富士山が雄大に見え、また登り口の「やきつべの小径」が郷愁のある道で、心が落ち着きます。
 
広い駐車場があり、そこから登山口まで「やきつべの小径」を歩きます。沢沿いの道は水車小屋があったり、家の門でミカンが売られたりしています。

Dsc09189 家の門で売られているミカン

20分ほどで登山口に着き、ミカン畑の道を登って行きます。振り返ると歩いて来た小径沿いの家々が見えます。

Dsc09199 小径沿いの家々

農道を4回横切り、茶畑の道を行くと、頂上に着きました。登山口から1時間でした。眼前に雄大な富士山が見えました。

Dsc09208 富士山

真っ白に雪をかぶった南アルプスも見えます。

Dsc09212 左から聖岳、赤石岳、悪沢岳

反対方向には焼津港から太平洋も一望できます。

Dsc09211 焼津港

満観峰は景色がよく登り易い山なので、多くの人が来ていました。

満観峰動画をUPしました。

別の話を書きます。対馬丸撃沈事件です。
 
 対馬丸撃沈事件とは、戦争中の1944(昭和19)年8月22日、疎開学童ら1788名を乗せた対馬丸が、米潜水艦の魚雷攻撃を受け、沈められた事件を言います。犠牲者数1484名です。
 1941年12月にはじまった太平洋戦争は、翌年の夏から敗戦を重ねるようになり、1944年7月7日、ついにサイパン島が占領されました。
 「サイパンの次は沖縄だ」と判断した軍の要請で、政府は奄美大島や徳之島、沖縄県の年寄り・子供・女性を島外へ疎開させる指示を出します。
 沖縄から長崎を目指し出航した対馬丸は、鹿児島県沖で、米潜水艦の魚雷攻撃を受けました。
 ほとんどの乗船者は船倉に取り残されました。海に飛び込んだ乗船者も台風の接近に伴う高波にのまれました。
 イカダにすがって漂流した乗船者が僅かに、付近の漁船や海軍の哨戒艇に救助された程度です。奄美大島まで流されるなどして生き延びた乗船者もいます。
 この撃沈事件が大変悲劇であるのは、乗船していた疎開者のうち、半数は学童集団疎開の子どもたちだったことです。
 1484名の犠牲者の中、783名は学童でした。当ブログとほぼ同じ年代の人たちです。何という悲劇でしょうか。
 沖縄は戦中・戦後、犠牲を強いられています。沖縄に寄り添った気持ちを持ち続けて行きたいと思っています。
 

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