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2016年1月26日 (火)

本宮山(フィリピン戦)

たいへん冷え込んでいますが、風も無く快晴です。本宮山(789m)を歩いて来ました。大変人気のある山で、9時でしたが駐車場は一杯の車です。

Honguusan

雑木林の中の歩きやすい道を行き、ほぼ中間の馬の背岩辺りを過ぎると、雪が積もっています。

上に行くほど、雪も多くなってきました。アイゼンを付けている人もいます。何とか砥鹿神社奥の院に着きました。ここからは真っ白な富士山が見えました。

Dsc09274 砥鹿神社奥の院からの富士山

奥の院辺りは一面の雪です。頂上には1時間50分ほどで着きました。

Dsc09273 一面の雪

Dsc09270 本宮山頂上

帰りは林道を回って下りましたが、思わぬ雪山を楽しむことが出来ました。

別の話を書きます。
 
 戦中戦後の事件・出来事について書いております。1月24日の中日新聞15面にフィリピン戦についての記事がありました。今日はフィリピン戦についてです。
 
 日本は戦時中、特に東南アジアの人たちには大変な迷惑をかけました。フィリピン戦のことはあまり知られていません。
 
 フィリピン戦での総死者数は、フィリピン 111万人、日本 52万人、アメリカ 1万5千人でした。フィリピン人総死者数111万人の犠牲者というのは、国民17人に1人ということになるそうです。
 
 このうち1945年2月~3月のマニラ戦での戦死者はマニラ市民10万人、日本軍1万6千人、米軍千人とされています。
 
 また1ケ月に及んだマニラ戦では、一般市民を巻き込む無差別砲撃でした。国際法上、無差別砲撃は許されていません。犠牲になったのは無防備な市民です。いつも子供や女性など弱いものが犠牲になります。
 
 人命ばかりではありません。首都マニラをはじめ、国土は破壊し尽くされました。街並みの美しさからマニラは「東洋の真珠」と呼ばれていましたが、そのマニラ市街も灰じんに帰しました。
 
 戦後のフィリピン戦犯裁判では、被告の半数以上に死刑が宣告されました。しかし終戦7年後の1953年キリノ大統領による恩赦で、モンテンルパ刑務所の死刑囚を含む108人が帰国しました。
 
 これには「ああ、モンテンルパの夜は更けて」の渡辺はま子の困難を極めた奔走があり、死刑囚の前で歌ったこの曲が、キリノ大統領の心を動かしたということもあります。
 
 このように裁判後のフィリピンは、日本に対して寛容を基調としたものでした。キリノ大統領はマニラ市街戦で自分の妻と娘を失っているにもかかわらずです。
 
 現在のフィリピンは親日的です。フィリピンの人も多く日本に来ています。このような恩を忘れずに、フィリピンの人には親切にし、より友好が深まればと思っています。
 
今日はまた、天皇・皇后両陛下が、フィリピンへの公式訪問と「慰霊の旅」に出発されました。

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