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2016年2月

2016年2月26日 (金)

河津桜 

浜松市都田町滝沢に河津桜を見に行って来ました。フルーツパークの近くにあります。

Miyakodakawadu_2

8~9分咲きで、見頃でした。植えてから10年ほどになります。

Dsc09547 滝沢河津桜1

Dsc09539 滝沢 河津桜2

Dsc09550 滝沢 河津桜3

Dsc09541 滝沢 河津桜4

次に滝沢から5kmほど離れたところの都田総合公園の河津桜を見に行って来ました。ここも若い木です。

Dsc09562 都田総合公園河津桜1

Dsc09559 都田総合公園河津桜2

Dsc09554 都田総合公園河津桜3

Dsc09564 吊り橋

今では河津桜があちこちで見られますが、ちょうど満開です。

もう1ケ所書き加えます。2月21日に伊良湖の戦争遺構を見に行ったとき、田原市福江の免々田川(めめだがわ)の河津桜を見ました。

Fukuekawadu

Dsc09477 案内板

川沿いに約300本の桜が植えられています。まだ6分咲ほどでした。

Dsc09476 免々田川の河津桜1

Dsc09475 免々田川の河津桜2

Dsc09472 免々田川の河津桜3

Dsc09471 免々田川の河津桜4

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2016年2月25日 (木)

雨生山

登山口に桜の園があるので、そこの咲き具合を見ながら、雨生山(うぶさん 313m)に行って来ました。登りは桜の園の西の道を行きます。

Ubusan2

桜の園沿いの道が終ると林道に出、少し歩くと登山道となります。登山道をしばらく歩くと展望の良いピークに着きました。雨生山や吉祥山が形よく見えます。

Dsc09530 左から雨生山、吉祥山、本宮山

ここからは南アルプスの聖岳や赤石岳も見えました。

Dsc09532 右から聖岳、赤石岳、悪沢岳

近くに反射板のある金山も見えます。

Dsc09534 金山

すぐに雨生山に着きました。登山口からちょうど1時間でした。ここからは浜名湖がよく見えます。

Dsc09523 雨生山頂上

Dsc09525 雨生山から浜名湖

帰りは桜の園の方へ出ました。僅かに河津桜が咲いていただけで、桜はほとんど咲いていません。気温は低いですが、天気が良いので爽快にあるけました。

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2016年2月24日 (水)

村櫛自転車道路(伊良湖の戦争遺跡)

浜松市舘山寺町村櫛のサイクリングロードを自転車で走ってきました。

Murakusi2

 

Dsc09508 道路案内板

上の写真は弁天島方向ですが、反対方向の舘山寺を目指して走りました。出発点はガーデンパーク前です。浜名湖の沿岸を行きます。

Dsc09505 サイクリングロード

湖ではサーフィンをしている人もいます。

Dsc09511 サーフィンをしている人

サイクリングロード横は養鰻場が多くありますが、行われているところもあり、放置されているところもあり、また埋め立てられて太陽光発電のパネルが敷き詰められているところもあります。

Dsc09506 養鰻場

湖を見ながらのサイクリングは楽しいですが、風が強く、また戻って来なければならないので、40分ほど行き戻りました。また続きを何時か行いたいと思います。

 

戦前戦後のことを書き足しています。

地下壕や試射場など戦争遺構は日本の多くの所で見られます。

当ブログの近くの伊良湖岬にも、実弾射撃試験の戦争遺跡があるので、2月21日に、見に行って来ました。

先ず、「日出の石門」の近くには「陸軍伊良湖試験場外浜観測所跡」があります。

Dsc09498 遺構

これはどういう目的でここに造られたのかはっきりしていないようです。実弾射撃試験時の着弾監視、あるいは実弾射撃試験時に伊良湖水道に入る船の監視ということもあったようです。

次に15kmほど離れた小中山に行きました。「小中山児童公園」には「陸軍省所轄地」の碑と立哨台がありました。

Dsc09485 小中山児童公園

Dsc09486 「陸軍省所轄地」の碑

Dsc09487 立哨台

小中山児童公園の前には田戸(たど)神社があり、田戸神社の門柱には「陸軍技術本部伊良湖試験場跡」という表札がありましたが付け替えられたようです。児童公園の門に、これの古い表札がありました。

Dsc09488 表札

Dsc09492 古い表札

田戸神社には他に背丈ほどのコンクリートの直方体状の物がありました。

Dsc09489 直方体物

これは写真の左側が開いており、信管検査に使われたようです。

さらに田戸神社から少し進んだところに、大きな建物がありました。6階建ての建物なので遠くからでもよく分かります。

Dsc09478 6階建ての建物

Dsc09479 建物内部

これは気象観測棟です。 またすぐ近くにはコンクリートの2階建ての建物がありました。

Dsc09483 2階建ての建物

これも同じ関連施設で無線電信所です。外見では何に使われていたのか全く分かりません。

他にこのような建物はありません。中に入ることも出来、落書きもあって荒れるままになっています。

この一帯は今はキャベツ畑になっていますが、かっては広大な試射場があったわけです。このような歴史的な建物は、 戦争遺産として是非残してほしいと思います。

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2016年2月19日 (金)

龍尾神社のしだれ梅

静岡県掛川市下西郷の龍尾(たつお)神社にしだれ梅を見に行って来ました。開花時期は2月上旬から3月中旬位ということですが、7分咲きほどで丁度良いときでした。
赤、薄紅、白のしだれ梅が300本ほどあります。

P2190048 しだれ梅1

P2190014 しだれ梅2

P2190045 しだれ梅3

P2190018 しだれ梅4

P2190028 しだれ梅5

P2190033 しだれ梅6

P2190049 しだれ梅7

P2190041 しだれ梅8

天気もよく、梅の香に酔いしれながら掛川城の見える園を一周しました。

梅林のホームページにも追加しました。

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2016年2月17日 (水)

竜ヶ岩山(平岡ダム強制連行)

静岡県引佐町の竜ヶ岩山(りゅうがしさん)に行って来ました。近くには竜ヶ岩洞があります。高さ359mで簡単に登れる山です。

Ryuugasiyama

竜ヶ岩洞から林道登山口まで車で入りました。ここまで入ると、頂上には15分で着きました。引佐・浜松市街、浜名湖、太平洋が一望できます。

Dsc09449 頂上からの展望

頂上は広場になっており、ハングライダーが飛べるようになっています。展望台や鐘があり、河津桜が咲きかけていました。

Dsc09455 頂上

戦中戦後の頃の話を書いています。
 
平岡ダムは長野県天竜村にあります。平岡発電所は桜の名所として知られていますが、その上流にあるダムとその歴史についてはあまり知られていません。
 このダムは電力不足を補うため国策として、天竜川をせきとめ、水力発電する目的で1940(昭和15)年に着工、途中資材不足による中断を経て1952(昭和27)年に完成しました。

 その作業には、中国から連行されてきた中国人労働者、強制連行による朝鮮人労働者、捕虜となったイギリス人らが当てられていました。
 労働者は現場近くの飯場等で生活し、飯場頭のもとで極めて低賃金(日本人の1/3程度)で働かされました。
 衣服、入浴はままならず、食事は粗末なパン一日三個と汁のみ、など劣悪な状況のなか、捕虜同様の扱いで作業を強いられ、多くの人たちが事故や病気で亡くなっています。

 ダム建設の背景には、こうした歴史があることは語られず、被害者たちによる損害賠償請求の提訴が行われるようになるまで、まさに暗い歴史を封印する状況が長く続いていました。

 当ブログも平岡ダムに行ったことがありますが、そのときはこのような歴史があることは知りませんでした。昨年.長野県阿智村の「満蒙開拓平和記念館」に行ったとき、初めてこのことを知りました。

Dsc05797 平岡ダム(平成25年11月14日撮影)

 現在、平岡ダムには、強制連行殉難者を供養する慰霊碑が建てられ、長野県日中友好協会 の主催による慰霊祭が毎年行われています。

 また、山腹の火葬場跡から掘り出された人骨は、あの残留孤児の父 山本慈昭さんらの胸に抱かれて祖国に送られました。

 

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2016年2月15日 (月)

続 新東名開通

新東名、浜松いなさJCT~豊田東JCTが開通して3日目、開通区間を走ってみました。
浜松いなさIC→浜松いなさJCT→新城IC→下り長篠設楽原PA→岡崎東IC→岡崎SA→豊田東JCT→豊田東ICと走り、また折り返して上り長篠設楽原PAに寄り、新城ICまで走り、一般道に出ました。

Sintoumeikaituu2 

開通して3日目ということで、まだ混んでいると思いましたが、道路はスムーズに流れています。すべてのSA、PAに寄ってみましたが、どこも満車とはいえ、待つこともなく駐車できました。
先ず、下り長篠設楽原PAです。ここは織田信長戦地本陣跡があるのが特徴でした。

Dsc09416 下り長篠設楽原PA

武田軍に対して、設楽原に進出した織田軍はここに本陣を置きました。この本陣は「茶臼山」という山で、飯田線にも「茶臼山」という駅があります。

Dsc09430 織田信長戦地本陣跡

Dsc09425 下り長篠設楽原PAからの眺め 後ろの山は吉祥山

次に岡崎SAに寄りました。ここは上下線共用型で上り線は「岡崎宿」、下り線は「森」をイメージした特徴になっています。
Dsc09437上り線側

Dsc09432 下り線側

Dsc09436 岡崎SA

Dsc09434 混雑する店内

豊田東ICで下りて引き返し、帰りは上り長篠設楽原PAに寄りました。ここはほとんど下り長篠設楽原PAと同じ位置にあります。

Dsc09442 上り長篠設楽原PA

全車線片側2車線で快適に走れます。山裾を通っているので、トンネルと橋が多く、山を削って切通しにしたようなところが随所にあり、よくぞ削ったと見入りました。

トンネル、橋、斜面の掘削・固定など大変な工事であったと思いますが、このような工事を短期間で仕上げてしまうことにほとほと感じ入りました。

 

 

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2016年2月13日 (土)

新東名開通

新東名、浜松いなさJCT~豊田東JCTが平成28年2月13日午後3時に開通しました。この区間には、新城ICと岡崎東IC、岡崎SA、長篠設楽原PAが設けられます。

Sintoumeikaituu2

新東名、御殿場JCT~浜松いなさJCTは,平成24年4月14日に開通していますが、約4年遅れての開通です。

Sintoumei3

平成24年の頃は、どこに建設されるのか分からなかったこの巨大な構造物を、遅れたとはいえ、よくぞ4年で作り上げたという思いがします。
離れたところから見ると、山裾をトンネルと橋でつないだ新東名がよく分かります。
Dsc09266 本宮山から見た新東名

Pb260005 吉祥山から見た新東名

浜松いなさJCT~豊田東JCTは55kmあり、御殿場JCT~豊田東JCT間の200kmが繋がりました。
浜松いなさJCTでは、静岡方面から来ると、これまでは自然と連絡道路に入り、三ケ日JCTへと誘導されていましたが、これからは直進すれば、名古屋方向の新東名に入ります。

Jancshonsintoumeikaitu3

新東名高速道路は、海老名南JCT~御殿場JCT間の53kmが建設中で、この工事が終わる平成32年度に全面開通する予定になっています。

当ブログは50年前にオートバイで豊橋から名古屋まで国道1号線を走ったことがありますが、その頃は舗装もされていませんでした。

この50年で、東名、新東名、国道1号線、国道23号線と主要幹線道路が4本にもなり、隔世の感が致します。

御殿場JCT~浜松いなさJCT開通時には 新東名HP いなさ連絡路HP を書いております。

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2016年2月11日 (木)

平尾山(広島・長崎原爆)

大原調整池から平尾山に行って来ました。はじめ五葉城址に寄ると、木が切られ展望がよくなっていました。

Ooharahiraotettou

霞んでいましたが富士山が見え、南アルプスも見えます。

P3270009 南アルプス

平尾山は464mで豊橋では1番高い山です。展望はありません。平尾山から宇利峠側へ歩き、一周して来ました。2時間20分ほどの歩きでした。

戦中戦後のことを書いています。
広島・長崎の原爆について、原爆にまつわる2つの曲を聞いてみます。
1つは藤山一郎の名曲「長崎の鐘」です。この歌は長崎医大教授・永井隆博士について歌った歌です。
永井博士カトリック信者で自分も被爆しながら、献身的に被害者の救護にあたりました。43歳の若さで逝去しました。夫人は原爆で亡くなりました。

もう1つは島倉千代子の「ひろしまの母 」です。原爆で子供を失った母の悲しみを歌った歌です。
原爆での広島の死者数は14万人、長崎は7万4千人とされています。
当ブログも広島・長崎の原爆資料館など訪ねております。核兵器は非人道的な兵器で、一日でも早く廃絶せねばなりません。
Photo浦上天主堂の被爆した天使像
 
(歌はネットで拝借しました)

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2016年2月10日 (水)

東山(豊橋・浜松空襲)

葦毛湿原から二川の東山に行って来ました。いつ来ても駐車場は車がいっぱいです。それぞれに冬の山を楽しんでいるようです。

Higasiyama_imou2

豊橋自然歩道の一番端の山になります。富士山は見えませんが、二川の街から太平洋が望めます。

Dsc09414 東山頂上

Dsc09413 頂上からの眺め

ここから別の話になります。当ブログも戦争を経験した最後の世代となりつつあります。戦中戦後のことを書いています。

戦争も末期になると地方都市まで空襲を受けました。全国では200以上の都市が被災し、30万人以上の死者、1,500万人が家を失ったとされています。

当ブログは終戦の年、5歳1ケ月でした。住まいは豊橋と浜松の中間ほどの田舎町に住んでいました。

豊橋と浜松は空襲を受けましたが、当ブログ住んでいた町は空襲を受けていません。

当ブログは全く記憶がありませんが、豊橋と浜松の空襲は夜間で、その方向が赤く見えたとしばしば聞いてはおります。とくに浜松への艦砲射撃はすさまじかったことを何度か聞きました。

さて、豊橋市への空襲は、昭和20年6月19日深夜から20日未明にかけてB29による爆撃を受けました。一夜にして市街地の90%ほどが焼け野原となり、624名が犠牲となりました。 

また軍施設の多かった浜松市への空襲は27回ありました。合計死者数は3000名ほどとされています。特に昭和20年7月29日夜の艦砲射撃(軍艦が搭載する大砲で射撃)は無差別射撃ですさまじかったようです。当時を知る人は「空襲よりも怖かった」ということです。

このように戦争末期には、多くの地方都市までが空襲を受けました。B29戦闘機は飛行距離の短いマリアナ諸島や更には硫黄島から飛来しました。

やがて原爆が投下され、敗戦しました。当時我が家に疎開してきていた従姉は、最近の法事のとき、「伯父さん(当ブログの父親)から戦争に負けたということを聞いて、呆然とした。」ということを聞き、敗戦を改めて身近に感じました。

このような状態になっていても、日本が負ける とは思ってもいなかった、という人が、圧倒的に多かったようです。

「全滅」を「玉砕」、「退却」を「転進」と言うように、真実が伝えられず、情報がなかったことが、日本は負けない と思っていたということの一つになっていると思います。

 

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2016年2月 8日 (月)

赤岩尾根ピーク(続豊川海軍工廠)

家より、赤岩尾根の鉄塔のあるピークまで行って来ました。赤岩尾根は豊橋自然歩道尾根の派生尾根です。

Akaiwatakayama3

乗小路の住宅街を抜け、旧鎌倉街道が登山口となります。

Dsc09399 登山口

展望のない尾根道を行きます。1時間でピークに着きました。ここから富士山は見えませんが、南アルプスが見えました。雪をかぶって真っ白です。

Dsc09407 赤岩尾根ピーク

Dsc09405 右から聖岳、赤石岳、悪沢岳

Dsc09402 塩見岳

風も無く、気持ちよく歩くことが出来ました。

別の話を書きます。
 前回2月5日に豊川海軍工廠(こうしょう)のことを書きましたが、見学会が2月7日にあり、行って来ました。
 見学地は、豊川市穂ノ原の名古屋大宇宙地球環境研究所豊川分室内です。
Dsc09360名古屋大宇宙地球環境研究所

Toyokawakaigun2_2

 豊川市に海軍の工廠が造られたのは、交通が便利、雑木林の土地、軍事通信に好位置 などあるようです。造られたときは3町村に亘る広大な面積でした。3町村はすぐに合併し、豊川市となりました。

 工廠跡地は今はほとんどが工場・自衛隊などに変わりましたが、名古屋大の広い一角はそのまま残されています。普段はここに入ることはできません。
 この跡地は「跡地保存を進める会」によって保存活動が進められてきましたが、豊川市はこの敷地内に3ヘクタールの平和公園を2018年度までに創ることを決定しました。このような遺構が残されることはまことに喜ばしいことです。
 見学は工廠内の残存建物や空襲跡を約2時間、説明を聞きながら見学しました。参加者数は300人以上でした。

 

Dsc09364 見学者

 爆薬置き場は高さ5mの土塁に囲まれ、この建物で爆発事故が起きたとき、周囲に被害が及ばないようにしてありました。

Dsc09371 爆薬置き場

原料置き場は、レンガ造りで厚い壁となっています。

Dsc09392 原料置き場

他に 火薬庫、火薬乾燥場、料薬配合場、水槽、街路灯、防空壕跡、250キロ爆弾跡など見学しました。

70年前は東洋一の軍事施設が広大な土地に広がっていたわけです。当ブログが生まれたころになりますが、想像もできません。

残っている遺構を残し、平和であることを願わずにはいられません。

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2016年2月 5日 (金)

鳳来寺山(豊川海軍工廠)

鳳来寺山を歩いて来ました。鳳来寺山駐車場まで車で行き、山頂を往復しました。天気はよく、風も無いのでそれほど寒さは感じません。

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鳳来寺本堂から勝岳不動堂、六本杉を経て奥の院へ着きました。奥の院の建物は大分前から倒れてしまっています。ここからは参道がよく見えます。

Dsc09315 奥の院から参道を見る

奥の院から10分ほどで頂上に着きました。駐車場からは1時間でした。展望はありません。

Dsc09316 鳳来寺山頂上

来ている人は少なく、2人に逢っただけでした。

別の話を書きます。戦中戦後のことが自分の中で埋もれてしまわないように書いています。戦時中、当ブログの街の近くには、豊川海軍工廠(こうしょう)がありました。当時は東洋一の兵器工場と言われました。

工廠とは、軍隊直属の軍需工場のことで、武器・弾薬をはじめとする軍需品を開発・製造・修理などするための施設を言います。

豊川市海軍工廠は、海軍兵器の生産を目的として、昭和14年12月に開庁しました。機銃、弾丸、双眼鏡、射撃装置、艦船で使用する距離儀などを生産し、機銃の生産に関しては日本最大の規模でした。

最盛期にはおおよそ5万人以上が働いており、職員や工員以外に徴用工員や動員学徒のように強制的に動員された人々も多くいました。

工廠での仕事は、「産業戦士」と言われるように厳しくつらいもので、寄宿舎住まいの徴用工員や動員学徒などは、軍隊並みの規律正しい生活をしていました。

戦争末期の昭和20年8月7日、工廠は米軍爆撃機の空襲を受け、破壊されました。この空襲は、26分間に3,256発もの爆弾が落とされるという激しいもので、瞬時にして壊滅しました。

2,500名以上が犠牲となり、そのうち勤労動員の中学生・女学生・国民学校児童は447人に及びました。このように若い命までもあたら失われてしまいました。

 

                    (資料:豊川市観光協会HP)

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2016年2月 4日 (木)

尉ケ峰(瑞穂村開拓団集団自決)

静岡県細江町の尉ケ峰(じょうがみね)に富士山を見に行って来ました。登り口は下の地図で見るように何ケ所かありますが、近い林道登山口から登りました。

Jougaminerinndou2

林道の登山口からもう富士山が見えます。

Dsc09311 富士山

登山口からは20分で頂上に着きます。頂上からは富士山は見えなくなりますが、浜名湖が見えます。

Dsc09307 頂上東屋から浜名湖

今日は立春、穏やかな天気です。登山口に来る途中、マンサクの花、梅の花、河津桜、なのはな も見ました。

別の話を書きます。

前回書いたブログに「瑞穂村開拓団集団自決」を記しましたが、その事件をインターネットで調べていると、そのページに出合いました。拝借し、紹介させていただきます。

「瑞穂村開拓団集団自決」とは、敗戦1ケ月後に、旧満州国の瑞穂村開拓団が集団自決した事件で、自決者は約半数の495人でした。

以下そのページの抜粋です。 

 滋賀県甲賀市の竹口拓志さん(65)は、姉3人と兄2人が、亡くなった事実を2011年初めて知った。生前、何も語ろうとしなかった両親の沈黙の意味と、深い苦悩が思われた。

「母は毎晩毎晩うなされていました。常に子どもの夢を見ていたんじゃないでしょうか。母にとっては、生きることも地獄だったことでしょう。」

1982年に67歳で他界した母、ツヤ子さんの胸中を推し量り、竹口さんは声を落とした。「いま思えば、母が声を出して笑ったのを見た記憶がないのです。」

2011年、竹口さんは『第三次開拓団 あゝ瑞穂村』という、旧満州国瑞穂村の村史を記した本に出合った。その本には父、楠雄さんと母、ツヤ子さんが入植した旧満州の瑞穂村の様子が書かれており、元開拓団員らが1982年に編んだ記録集だった。

竹口さんは、元開拓団員らの寄稿文の中に思いがけない名前を見つけ仰天した。6年前に他界した父、楠雄さんの手記が載っていたのだ。表題は『思い出したくないこと』。

《私の妻は子ども五名を手にかけて殺して居ります――》

そこには、初めて知る衝撃の事実が記されていた。竹口さんは「最初は涙が出て、とても読むことができなかった」と振り返る。

1932年、日本は中国東北部に「満州国」を建国。国策により日本の民間人27万人を「満蒙開拓団」として送り出した。瑞穂村もその一つ。

1934年、ソ連国境に近い草原地帯に入植した。全国各地の出身者からなる混合開拓団で、竹口さんの両親は熊本から募集に応じた。そして、5人の子どもを授かった。

敗戦後、「満蒙開拓団」は集団自決などで7万2000人の死者を出し、敗戦間際に召集された人の多くはシベリアへ抑留された。残留孤児・婦人も膨大な数に上った。

「瑞穂村」も悲劇に巻き込まれた。『あゝ瑞穂村』には村の形成から崩壊までが克明に記録されている。1945年8月当時、入植者は1056人。

このうち「集団自決」で495人が死亡。生き残った人も辛酸をなめ、1946年5月、ハルピンで生存が確認されたのはわずか71人だったとされる。

何という悲劇でしょう。自分の子ども5人に手をかけ、自分は生き残り、その後を生きて来ねばならなかった。こんなに重い過去を背負って来た母親、全く言葉がありません。

(インターネット アジアプレス・ネットワークより拝借いたしました。)

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2016年2月 2日 (火)

神石山(戦中・戦後事件)

富士山を見に神石山に行きました。しかし雲があり見えませんでした。この時期見えないのが珍しいくらいです。

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浜名湖はよく見えます。

Dsc09287 神石山から浜名湖

神石山を直進し、雨やどり岩まで行きました。

Dsc09290 雨やどり岩

Dsc09293 雨やどり岩から豊橋市街

多くの人が山歩きを楽しんでいました。1時間40分ほどの歩きでした。

 

戦中戦後の事件・出来事を書いています。旧満州では、これまで書いた以外にも多くの事件が起きています。

牡丹江(ぼたんこう)事件

1945年(昭和20年)8月、旧満州国東満省において、日本人避難民680人がソ連軍機甲師団と暴民の襲撃により虐殺された事件。生存者は20人とされています。

 

瑞穂(みずほ)村開拓団集団自決

1945年(昭和20年)9月17日、旧満州国北安省瑞穂村開拓団が集団自決した事件。自決者は495人とされています。

 

葛根廟(かっこんびょう)事件

1945年8月14日、旧満州国興安総省の葛根廟において日本人避難民約千数百人(9割以上が婦女子)がソ連軍によって攻撃され、1,000名以上が虐殺された事件。

 

敦化(とんか)事件

1945年8月27日に満洲国吉林省敦化で、ソ連軍によって集団暴行され、日満パルプ製造敦化工場の女性社員や家族が集団自決した事件。日満パルプ事件とも呼ばれています。

 

通化(つうか)事件

1946年2月3日に、中国共産党に占領された、かつての旧満州国通化省通化市で、中華民国政府の要請に呼応した日本人の蜂起と、その鎮圧後に行われた中国共産党軍などによる、日本人及び中国人に対する虐殺事件。日本人3000人が虐殺されたとされています。

 (この記事はインターネット上のユニオンペディアから拝借いたしました)

 

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