« 神石山(戦中・戦後事件) | トップページ | 鳳来寺山(豊川海軍工廠) »

2016年2月 4日 (木)

尉ケ峰(瑞穂村開拓団集団自決)

静岡県細江町の尉ケ峰(じょうがみね)に富士山を見に行って来ました。登り口は下の地図で見るように何ケ所かありますが、近い林道登山口から登りました。

Jougaminerinndou2

林道の登山口からもう富士山が見えます。

Dsc09311 富士山

登山口からは20分で頂上に着きます。頂上からは富士山は見えなくなりますが、浜名湖が見えます。

Dsc09307 頂上東屋から浜名湖

今日は立春、穏やかな天気です。登山口に来る途中、マンサクの花、梅の花、河津桜、なのはな も見ました。

別の話を書きます。

前回書いたブログに「瑞穂村開拓団集団自決」を記しましたが、その事件をインターネットで調べていると、そのページに出合いました。拝借し、紹介させていただきます。

「瑞穂村開拓団集団自決」とは、敗戦1ケ月後に、旧満州国の瑞穂村開拓団が集団自決した事件で、自決者は約半数の495人でした。

以下そのページの抜粋です。 

 滋賀県甲賀市の竹口拓志さん(65)は、姉3人と兄2人が、亡くなった事実を2011年初めて知った。生前、何も語ろうとしなかった両親の沈黙の意味と、深い苦悩が思われた。

「母は毎晩毎晩うなされていました。常に子どもの夢を見ていたんじゃないでしょうか。母にとっては、生きることも地獄だったことでしょう。」

1982年に67歳で他界した母、ツヤ子さんの胸中を推し量り、竹口さんは声を落とした。「いま思えば、母が声を出して笑ったのを見た記憶がないのです。」

2011年、竹口さんは『第三次開拓団 あゝ瑞穂村』という、旧満州国瑞穂村の村史を記した本に出合った。その本には父、楠雄さんと母、ツヤ子さんが入植した旧満州の瑞穂村の様子が書かれており、元開拓団員らが1982年に編んだ記録集だった。

竹口さんは、元開拓団員らの寄稿文の中に思いがけない名前を見つけ仰天した。6年前に他界した父、楠雄さんの手記が載っていたのだ。表題は『思い出したくないこと』。

《私の妻は子ども五名を手にかけて殺して居ります――》

そこには、初めて知る衝撃の事実が記されていた。竹口さんは「最初は涙が出て、とても読むことができなかった」と振り返る。

1932年、日本は中国東北部に「満州国」を建国。国策により日本の民間人27万人を「満蒙開拓団」として送り出した。瑞穂村もその一つ。

1934年、ソ連国境に近い草原地帯に入植した。全国各地の出身者からなる混合開拓団で、竹口さんの両親は熊本から募集に応じた。そして、5人の子どもを授かった。

敗戦後、「満蒙開拓団」は集団自決などで7万2000人の死者を出し、敗戦間際に召集された人の多くはシベリアへ抑留された。残留孤児・婦人も膨大な数に上った。

「瑞穂村」も悲劇に巻き込まれた。『あゝ瑞穂村』には村の形成から崩壊までが克明に記録されている。1945年8月当時、入植者は1056人。

このうち「集団自決」で495人が死亡。生き残った人も辛酸をなめ、1946年5月、ハルピンで生存が確認されたのはわずか71人だったとされる。

何という悲劇でしょう。自分の子ども5人に手をかけ、自分は生き残り、その後を生きて来ねばならなかった。こんなに重い過去を背負って来た母親、全く言葉がありません。

(インターネット アジアプレス・ネットワークより拝借いたしました。)

|

« 神石山(戦中・戦後事件) | トップページ | 鳳来寺山(豊川海軍工廠) »

山歩き」カテゴリの記事

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 尉ケ峰(瑞穂村開拓団集団自決):

« 神石山(戦中・戦後事件) | トップページ | 鳳来寺山(豊川海軍工廠) »