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2016年2月10日 (水)

東山(豊橋・浜松空襲)

葦毛湿原から二川の東山に行って来ました。いつ来ても駐車場は車がいっぱいです。それぞれに冬の山を楽しんでいるようです。

Higasiyama_imou2

豊橋自然歩道の一番端の山になります。富士山は見えませんが、二川の街から太平洋が望めます。

Dsc09414 東山頂上

Dsc09413 頂上からの眺め

ここから別の話になります。当ブログも戦争を経験した最後の世代となりつつあります。戦中戦後のことを書いています。

戦争も末期になると地方都市まで空襲を受けました。全国では200以上の都市が被災し、30万人以上の死者、1,500万人が家を失ったとされています。

当ブログは終戦の年、5歳1ケ月でした。住まいは豊橋と浜松の中間ほどの田舎町に住んでいました。

豊橋と浜松は空襲を受けましたが、当ブログ住んでいた町は空襲を受けていません。

当ブログは全く記憶がありませんが、豊橋と浜松の空襲は夜間で、その方向が赤く見えたとしばしば聞いてはおります。とくに浜松への艦砲射撃はすさまじかったことを何度か聞きました。

さて、豊橋市への空襲は、昭和20年6月19日深夜から20日未明にかけてB29による爆撃を受けました。一夜にして市街地の90%ほどが焼け野原となり、624名が犠牲となりました。 

また軍施設の多かった浜松市への空襲は27回ありました。合計死者数は3000名ほどとされています。特に昭和20年7月29日夜の艦砲射撃(軍艦が搭載する大砲で射撃)は無差別射撃ですさまじかったようです。当時を知る人は「空襲よりも怖かった」ということです。

このように戦争末期には、多くの地方都市までが空襲を受けました。B29戦闘機は飛行距離の短いマリアナ諸島や更には硫黄島から飛来しました。

やがて原爆が投下され、敗戦しました。当時我が家に疎開してきていた従姉は、最近の法事のとき、「伯父さん(当ブログの父親)から戦争に負けたということを聞いて、呆然とした。」ということを聞き、敗戦を改めて身近に感じました。

このような状態になっていても、日本が負ける とは思ってもいなかった、という人が、圧倒的に多かったようです。

「全滅」を「玉砕」、「退却」を「転進」と言うように、真実が伝えられず、情報がなかったことが、日本は負けない と思っていたということの一つになっていると思います。

 

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