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2016年8月

2016年8月31日 (水)

愛知県民の森・南尾根展望台

昨日、愛知県民の森を南尾根展望台まで歩いて来ました。台風10号は東海地方は影響が無くなり、晴れています。

 

Kenminnomoritakitennbou

登り口はBキャンプ場からです。キャンプをしている人もいました。10分ほどで不動滝上展望台に着きました。ここから不動滝が見えるわけではありません。

Dsc00833 登り口

Dsc00836 不動滝上展望台

ここは直線の道がすぐ横にあり、展望台に気付かずに通り過ぎてしまうことがあります。さらに20分ほどで南尾根稜線に出ます。

Dsc00843 南尾根稜線出合

稜線上を登って行きます。露岩の道が続きます。県民の森歩道では、至る所で露岩の道が見られます。

Dsc00846 露岩の道

南尾根出合から20分で南尾根展望台に着きました。360度の展望です。宇連山や明神山など見えます。

Dsc00852 南尾根展望台

Dsc00850 宇連山

Dsc00855 明神山

ここで引き返しました。 南尾根出合からは別の道を降りました。しかしこの道はあまり歩かれていないようです。道は不明瞭なところがあり、荒れているところもあります。

管理林道の日本庭園のところに出、車まで戻りました。合計歩き時間は1時間40分でした。

Dsc00860 林道に出た所

今日は比較的涼しく、それほど汗もかきませんでした。川では子供たちも水遊びをしていました。

Dsc00861 県民の森の川

今日で8月も終わりです。夏が去り行くのは何か寂しい感じがします。

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2016年8月27日 (土)

奥大日岳(立山)

遠い山にはすっかり登らなくなりました。それでもシーズンに1回くらいは登りたいと思い、昨日、立山の奥大日岳に行って来ました。

Dsc00814

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2016年8月24日 (水)

阿寺の七滝・百間滝(処暑)

昨日、涼を求めて2つの滝を歩いて来ました。家から1時間くらいの所にある滝です。1つは「日本の滝百選」にも選ばれている「阿寺(あてら)の七滝」です。
もう一つは日本最長の断層帯である中央構造線に沿って流れている「百間(ひゃっけん)滝」です。

Aterahyaken

「阿寺の七滝」は新城市大野から県道442号に入ります。阿寺川に沿って行くと、駐車場のある入口に着きました。

ここからは林道を歩きます。せせらぎの音を聞きながら、大きな杉の木立の道を行くと、20分ほどで滝に着きました。

Dsc00694阿寺の七滝

Dsc00699 阿寺の七滝

Dsc00703滝壺 

滝は七つの滝があるのではなく、七段の滝です。川には魚もいます。滝の上のところまで階段があり、上からも見ることが出来ます。

賑わうと言うほどでもありませんが、間断なく人も訪れていました。川では子供たちが水遊びをしていました。

次に「阿寺の七滝」から車で10分ほどのところにある「百間滝」に行きました。巣山から七郷一色(ななさといっしき)に行く途中に、入口があるのですが今は通行止めでした。

大島ダムの方からも入れるので、そちらに回りました。道に案内板があります。入口からはロープの付いた急坂を下ります。10分ほどで滝に着きました。

細く落差の大きい滝です。滝は木々に囲まれ、また途中で曲がってもいるために全貌を一目で見ることは出来ません。

Dsc00709 百間滝上部

Dsc00722 百間滝下部

この辺りは断層が各所で見られます。百間滝は中央構造線に沿って流れる夏明川(下流は大島川)の弱い地盤のところが掘り下げられて、滝が出来ました。(説明板より)

滝の高さは120m(76間)です。あまり興味ありませんが、「ゼロ磁場の滝」とも言われ、パワースポットだそうです。

また急坂を登り、車まで戻りました。ここに清水が湧き出ていました。冷たくおいしい水でした。

Dsc00726 清水

別の話を書きます。

昨日の中日新聞朝刊に『「対馬(つしま)丸」疎開児童悼む』と言う見出しで記事がありました。

『太平洋戦争中に疎開児童船「対馬丸」が米潜水艦に撃沈され、多数の児童らが死亡した事件から72年となる8月22日、那覇市の碑の前で慰霊祭が開かれた。』(概要)と言う記事でした。

対馬丸撃沈については以前のブログで書きました。この撃沈事件が大変悲劇であるのは、乗船していた疎開者のうち、半数は学童集団疎開の子どもたちだったことです。

1484名の犠牲者のうち、783名は学童でした。何と痛ましいことでしょう。この事件をずっと忘れないようにしたいと思います。

また、昨日の中日新聞夕刊には「処暑ですが・・・ まだまだ猛暑」と言う季節の記事がありました。ススキの穂がなびいている写真がありました。

昨日8月23日は二十四節気の処暑でした。暦の上では立秋から秋へと移動して行き、処暑の頃にだんだん暑さが収まるとされています。

処暑に特に食べるものはあるのでしょうか。あえて言えばサンマだそうです。

 

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2016年8月22日 (月)

座談山(熊本城復旧工事)

台風9号が近づいており、伊豆半島や房総半島は大雨ということですが、豊橋辺りは青空も見えており、葦毛湿原から座談(ざだ)山に行って来ました。
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葦毛湿原はミズギボウシやミズギクなどが咲き、蝉もクマゼミからツクツクホウシに変わって秋の気配を感じます。
1時間で座談山頂上に着きました。空は黒い雲と晴れているところの境目がはっきり見えます。台風の影響と思われます。

Dsc00685 頂上での空

このまま進めば神石山を経て多米峠となります。ここで引き返しました。近くに神石山が見えています。

Dsc00687 神石山(右)から多米峠に続く山

こんな天気でしたが10人ほどに逢いました。

ここから別の話です。当ブログはクレーンや工事の大好き人間です。

熊本地震で石垣が崩れ、隅石1本で支えている熊本城の飯田丸五階櫓(いいだまるごかいやぐら)の工事がどのように行われるか、たいへん興味がありました。

ここから以降の写真はネット上で拝借いたしました。

iidamaru22かろうじて隅石1本で支えている飯田丸五階櫓

この「一本石垣」が繊細なので、 工事がどのような方法で行われるか大変関心がありました。「一本石垣」に資材・機械など触れないように、振動を与えてもいけないと思います。

しかし、7月末には無事、鉄骨の資材が櫓の一番下の床下に入ったようでホッとしました。挿入方法は次のように行われました。

工事ではまず、櫓を支えるアーム状の巨大な鉄骨「仮受構台(かりうけこうだい)」(全長約33m×高さ約14m×幅約6m)を組み上げました。そして、櫓を抱え込む位置まで油圧ジャッキで移動しました。

次の写真が巨大な鉄骨のアームが櫓を抱え込んだ図です。「一本石垣」に触れることも振動を与えることもなく、櫓を支えるということです。

仮受構台の最終工程予定図
 
次からは工事の過程の写真です。

組み立てられた仮受構台

仮受構台
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仮受構台を写真奥の方に移動中
仮受構台をこれから写真左に移動する

仮受構台を櫓まで油圧ジャッキで移動した

kuma6

この後、鉄骨材を3本櫓の下に差し込む これも油圧で行われる

鉄骨材が櫓の下に差し込まれた

鉄骨部材は、櫓の床下奥の位置まで差込まれ、櫓が現在の状況よりたわまないように支持されました。これで一安心です。

この施工は大林組ですが、さすがスケールの大きいことを行います。日本の土木の力の素晴らしさにほとほと感じ入りました。

工事立案、資材調達・運搬、建設機械の搬入・据付け、現場の整地などよくぞここまで整えたと思います。大林組は1ケ月でここまで行いました。

先ずは櫓が鉄骨で支えられ、崩れる心配が無くなりました。「一本石垣」はよく耐えてくれました。これで取り払われることと思います。

以上は飯田丸五階櫓ですが、熊本城はその他たくさんのところで崩壊しています。復旧には10年以上掛かると言われています。

当ブログも熊本城を訪問したことがあります。全面的に協力し、応援して行きたいと思います。

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2016年8月19日 (金)

坊ケ峰(本坂隧道)

坊ケ峰(ぼうがみね 446m)に本坂(ほんざか)峠から行って来ました。旧国道を本坂隧道(旧本坂トンネル)まで車で入り、そこから登りました。

Dsc08103 本坂隧道(愛知県側) 

トンネル手前の登山道を行くと、姫街道登山道と出合い、弘法水を経て、10分ほどで本坂峠に着きました。姫街道は歴史のある道で、三河と遠州を繋いでいます。この姫街道と交差して、豊橋自然歩道の尾根道があります。

Dsc08105 弘法水

Dsc08254 本坂

尾根道を右に行けば、富士見岩を経て多米峠に、反対方向は坊ケ峰や中山峠を経て宇利峠に出ます。坊ケ峰の方に行きます。

本坂峠と坊ケ峰は標高差120mで急坂ですが、距離は短いので15分で着きました。社があります。正観世音菩薩が祀ってあります。展望はありません。

Dsc08114 坊ケ峰頂上の社

Dsc08116 社の中に祀られている正観世音菩薩

三角点はこの社の裏にあります。帰りも来た道を戻りました。50分ほどの歩きでした。

ここからは本坂隧道について書きます。

この本坂隧道は、100年前の大正4年(1915)にできました。長さは205mです。今は1379mの新しい本坂トンネルが昭和53年(1978)に出来たので、本坂隧道を通る車はほとんどありません。

赤レンガ造りです。その頃はトンネルを隧道と呼んだので、表示板は右書きで本坂隧道となっています。

Dsc08104 表示板

今は荒れ果てて落書きがいたるところにあります。このような古いトンネルは、どうしても心霊スポットになりやすいため、こうした状況になってしまうようです。

愛知県側入り口部分は補強工事をしてあり、内部はレンガは見えませんが、静岡県側はレンガが見えます。

P3240033 本坂隧道(静岡県側)

P3240029 静岡県側入口

P3240030 隧道内部

P3240027 隧道内部 (愛知県側)

今は夏真っ盛りで、隧道付近も暑いですが、隧道の中は、風が通り、冷んやりとしています。

ここでこの隧道をとり上げたのは、このような古いものは大切にしてゆかねばならないと思うからです。また当ブログはこの隧道に思いがあります。

中学生の頃、ときどきこの隧道に来ました。「本坂の隧道」と近くにある「嵩山の蛇穴(すせのじゃあな)」は冒険の対象でした。

隧道が荒れて行くのは寂しいことです。いつまでも残ってほしいと思います。

 

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2016年8月18日 (木)

東山(本土空襲)

豊橋自然歩道の東端にある東山に、葦毛(いもう)湿原より登って来ました。

Higasiyama_imou

葦毛湿原にはミズギボウシやシラタマホシクサなど咲いていました。

Dsc00682 ミズギボウシ

Dsc00679

シラタマホシクサ

頂上には50分で着きました。こんな暑いときですが、4人が居りました。また途中では10人ほどに逢いました。

Dsc00684 頂上

アメリカ軍が日本各都市に対して行った空襲について書きます。

アメリカ軍による日本本土空襲は、特に昭和19(1944)年末頃から激しくなり、最終的には無差別爆撃となりました。
空襲は昭和20(1945)年8月15日の終戦当日まで続き、全国で200以上の都市が被災し、死傷者数は100万、被災人口は970万人に及びました。
被災戸数は、内地全戸数の約2割にあたる約223万戸が被災しました。北海道を含む多くの都市が空襲を受けています。その他、多くの国宝・重要文化財が焼失しました。京都も空襲を受けています。
空襲以外の日本本土への攻撃として、艦砲射撃も行われており、日立、清水、浜松など製鉄所や軍需工場が存在するいくつかの工業都市が破壊されました。
8月6日と9日の広島・長崎の原爆、そして15日の終戦、8月は鎮魂の月です。

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2016年8月17日 (水)

竜頭山

浜松市天竜区の竜頭山(りゅうとうざん)に行って来ました。1352mの山でスーパー林道から登れば簡単に登れる山です。かっては若者の憧れの山でしたが、公園となりました。

Ryuutouzanntenryuu

天竜区横山から秋葉神社上社に向けて入る林道が天竜スーパー林道で、水窪ダムまで続く長い林道です。

秋葉神社上社から14kmほど進むと天竜の森という避難小屋やトイレを備えた施設があります。芝生の中にベンチが沢山あり、整備されています。登山口は多くありますが、1番近い登山口です。

Dsc00674 登山口の天竜の森

この辺り一帯が公園となっており、気軽に散歩する気分です。アンテナを作ったときの林道もあり、アンテナを目指して行けばどの道からでも行けます。頂上は樹林の中で展望はありません。

Dsc00673 竜頭山頂上

頂上を直進し100mほど行ったところが展望台になっています。展望台からは富士山、聖岳、光岳、上河内岳、大無限山、黒法師岳などの山が見えるのですが、今日は曇っていて分かりません。

Dsc00671 展望台

高塚山、京丸山など近くの山が分かる程度でした。晴れていればこの山の間に富士山が見えます。

Ryuutoukyoumaru 展望台からの山

展望舎に温度計があり、25度でした。今日は下界は35度以上あったと思います。涼風もあり、何とも言えぬ心地でした。1時間ほどの歩きでした。

この後さらに10kmほど走り、山住神社に寄りました。

Dsc00677 山住神社樹齢1300年の大杉

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2016年8月 8日 (月)

占守島の戦い

8月6日の中日新聞に次のような記事がありました。

『 激戦の占守島(しゅむしゅとう)遺骨、身元を初確認 上智大 学徒兵、9月遺族に

 日ソの部隊がそれぞれ少なくとも死者数百人を出した第2次大戦末期の激戦地、千島列島北東端、占守島(現ロシア領)で昨年夏に収集された遺骨の1柱が、北海道小樽市出身の井戸井重市さん 当時(23) だとDNA鑑定で確認された。厚生労働省が5日、遺族に伝えた。占守島の日本兵遺骨はこれまで43柱が収集されたが、身元特定は初。 』  と言う内容でした。

占守島は千島列島の先端、カムチャッカ半島のすぐ手前にあります。

千島列島における位置赤いところが占守島

さて、占守島の戦いとはどんな戦いだったのでしょうか。

占守島の戦い(しゅむしゅとうのたたかい)は、太平洋戦争終戦後の1945年(昭和20年)8月18日〜 21日に、千島列島東端の占守島で行われたソ連軍と日本軍との間の戦闘です。

ポツダム宣言受諾により太平洋戦争が終戦(8月15日)した後の8月18日未明、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍が占守島に奇襲攻撃、ポツダム宣言受諾に従い、武装解除中であった日本軍守備隊と戦闘となりました。

戦闘は日本軍優勢に推移するものの、軍命により21日に日本軍が降伏し停戦が成立、23日に日本軍は武装解除されました。捕虜となった日本兵は、その後大勢が法的根拠無く拉致され、シベリア抑留されました。(Wikipediaより
占守島には日本人約25,000人が暮らしており、ニチロの缶詰工場もありました。
戦闘は日本軍優勢に進み、ソ連軍の北海道への侵攻を妨げることとなりました。もしソ連軍が北海道へ侵攻しておれば、ドイツや朝鮮半島のように、北海道が米ソによる分割統治になるという事態になっていたかも知れません。
 
その後、日本の固有領土である北方領土については、ソ連軍は
1945年8月28日、   択捉(エトロフ)島を占領。
同9月1日、       国後(クナシリ)島・歯舞群(ハボマイ)島を占領。
同9月5日、       色丹(シコタン)島を占領。
北方四島は今だ日本には還ってきておりません。
 

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