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2016年12月26日 (月)

大原調整池(続 対馬丸撃沈事件)

昨日、大原調整池の小径の中で、まだ歩いていなかった「展望の小径」を歩きに行きました。

Ooharachouseiikegoyou1

湖畔に車を置き、「展望の小径」に入ります。やや荒れた道を行きます。

Dsc01394 展望の小径案内板

やがて「健脚の小径」と出合います。そのまま湖畔に下りて行きました。樹間に大原調整池が見えます。すぐに下に着きました。

Dsc01393 大原調整池

40分の歩きでした。湖畔の道を一周している人が何人かいました。

 

ここから対馬丸撃沈事件の話となります。
当ブログは終戦のとき5歳1ケ月でした。戦争の記憶はわずかに残っています。戦争記憶のある最後の世代となりつつあり、戦争のことを少しでも書いておきたいという思いがあります。

今日の中日新聞に対馬丸撃沈事件についての記事がありました。対馬丸撃沈事件については1度書いています。

この事件は終戦の1年前の1944(昭和19)年8月22日に起きました。当時当ブログは4歳でしたからこの事件は知りません。また、このような不利な報道は戦争中にはあまり報道.されていなかったようです。

対馬丸撃沈事件とは、疎開学童ら1788名を乗せた対馬丸が、米潜水艦の魚雷攻撃を受け、沈められた事件を言います。犠牲者数1482名です。

今日の新聞には対馬丸撃沈事件についてもう少し詳しく書いてありましたので紹介します。

1944(昭和19)年8月22日夜10時頃、対馬丸は鹿児島県トカラ列島悪石(あくせき)島沖で米海軍潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け、たった10分ほどで沈没しました。

この撃沈事件が大変悲劇であるのは、1482名の犠牲者の中、783名は学童でした。当ブログとほぼ同じ年代の人たちです。今日の新聞にも助かった人の話が載っていました。

対馬丸の船体は1997年12月に水深870mの海底で発見されましたが、引き揚げは断念され、遺品や遺影などを展示する対馬丸記念館が2004年に沖縄那覇市に開館しました。

ボーフィン号は真珠湾攻撃の1年後に進水した潜水艦で、対馬丸の他に日本の商船など44隻を沈めたとされています。

戦局はこの時点でも圧倒的に不利であったのに、戦争はなお1年続き、大多数の国民も日本の勝利を信じていたのはいったい何故でしょうか。

沖縄は最前線にあり、戦前・戦後とも犠牲になってくれました。その沖縄には報いなければなりません。

今月の22日に北部訓練場が返還されましたが、それでも日米軍専用施設・区域の70%が沖縄に集中しています。

学童たちの犠牲、沖縄の人たちの犠牲があって今があるということを片時も忘れないようにしたいと思います。沖縄は県民の4人に1人が戦没しました。

また、真珠湾には撃沈された戦艦アリゾナの上にアリゾナ記念館が立ち、近くには潜水艦ボーフィン号が繋留・展示されています。

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