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2017年3月

2017年3月31日 (金)

雲谷山(逸勢桜)

今日の新聞に足助のカタクリが咲いたという記事が載っていました。葦毛湿原奥の道を行き、座談山尾根道にもカタクリの花が咲き始めたか見に行って来ました。

Zadayamaunoya 

カタクリはテレビアンテナのある雲谷(うのや)山付近に咲きます。頂上付近に咲いていました。数も少なくまだほとんど蕾です。

Dsc01790 カタクリ

毎年3月20日頃には一面に咲くのですが、今年はかなり遅れています。まだ10日ほど掛かりそうです。人も少なく10人ほどに逢っただけでした。雨も降ってきました。

Dsc01791 カタクリ

桜も例年より遅れています。毎年早咲きする三ヶ日町本坂の一本桜「逸勢(はやなり)桜」を昨日(3月30日)見て来ました。三筆の橘逸勢の遺跡にある桜です。ちょうど満開でした。

Dsc01787 逸勢桜

Dsc01781 案内板

Dsc01780 逸勢桜

品種はエドヒガンサクラですが、この桜は毎年どの桜よりも早く咲きます。

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2017年3月22日 (水)

宇津山(ミツバツツジ)

宇津山(うずやま)は湖西市入出(いりで)にある高さ54mの山で、頂上は戦国時代の城跡となっています。

宇津山は浜名湖に突き出した半島にあり、時季には山一面にミツバツツジが咲き乱れます。桜に先駆けて咲きます。

Shoutaiji

今年は花の咲くのが遅いのでどうかと思いましたが、10本ほどが咲いていました。感激でした。例年より10日ほど遅いようです。

Dsc01761 ミツバツツジ

宇津山は正太寺(しょうたいじ)の境内で、毎年山の頂上まで、きれいに草が刈り取られています。これはほんとうに大変なことと思います。手すりの竹も替えてあります。石段も直してあります。

登り始めのところにはモクレンが咲いています。

Dsc01760 モクレン

ほんの10分ほどで頂上です。頂上からは浜名湖が眺められます。

Dsc01762 浜名湖

この後、豊橋の葦毛湿原に寄ってみました。ハルリンドウやショウジョウバカマが咲いていました。

Dsc01763 ハルリンドウ

Dsc01772 ショウジョウバカマ

追記

翌々日の3月24日に座談山のカタクリの咲き具合を見に行って来ました。ほとんどと言っていいほど咲いていませんでした。

僅かに蕾があっただけでした。

Dsc01770 カタクリ

 

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2017年3月16日 (木)

宇連山(川売の梅)

川売(かおれ)の梅がちょうど見頃です。梅を観がてら、棚山高原林道から宇連山(929m)に行って来ました。

Uresan2

川売の梅林の道を上がって行きます.。林道は昨年は未舗装でしたが、終点までほぼ簡易舗装されていました。林道を終点のゲートまで車で入ります。

Dsc01728_2 林道終点のゲート

ゲートからしばらく林道を歩きます。30分ほど林道を歩くと宇連山への登山口があります。さらに1時間で頂上に着きました。

Dsc01730 宇連山頂上

明神山が眼前にどっしりとして見えます。南アルプスも鮮やかに見えました。鳳来湖も見えています。

Dsc01733 明神山、鳳来湖

Dsc01735 南アルプス

また同じ道を戻りました。途中では誰にも会いませんでした。

川売の梅林へ降りて来ました。ちょうど盛りです。

Dsc01740 川売の梅林

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2017年3月11日 (土)

吉祥山(続 井山祐太)

吉祥山に行って来ました。小さな沢沿いに登るBコース登山口からです。

Kitijoubkosu

頂上へは45分で着きました。富士山や南アルプスは雲や霞で見えなくなってきました。

Dsc01719 吉祥山頂上

初めてダンコウバイ(壇香梅)の花が咲いているのを見ました。

Dsc01716 ダンコウバイ

別の話を書きます。
第41期囲碁棋聖戦七番勝負第6戦が昨日行われ、井山棋聖が勝ちました。これで4勝2敗、井山は棋聖を防衛し 5連覇を達成しました。棋聖戦は囲碁界最高峰の棋戦です。
井山は囲碁界の七大タイトルの六冠(棋聖、本因坊、王座、天元、碁聖、十段)を保持しています。一冠(名人)を失ったとはいえ、かえって気が楽になったのか、ますます強くなっています。
棋聖を5連覇、または通算10期以上獲得した棋士は、引退後または60歳以降に「名誉棋聖」となる資格を得ます。棋聖戦は1977年から行われていますが、これまでに5連覇以上した棋士は藤沢秀行(6連覇) 小林光一(8連覇)の2人だけです。
これがいかに至難なことか、気が遠くなるほどです。井山は七冠という偉業を成し遂げ、今度は棋聖戦5連覇です。
井山は他にも2つの名誉称号を持っています。「二十六世本因坊」と「名誉碁聖」です。どこまで強いのか驚くばかりです。
テレビのNHK杯囲碁トーナメントを見ていますが、明日3月12日(日)に井山祐太と伊田篤史の準決勝戦があります。楽しみにしています。
井山祐太については以前にもブログに書きました。

 

 

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2017年3月 9日 (木)

赤岩尾根ピーク(東日本大震災52)

家から赤岩尾根ピークまで歩いて来ました。

Akaiwatakayama1 

赤岩尾根ピークは三河富士と呼ばれていることもありましたが,ピークには鉄塔があり富士山には似つかない形となりました。

春めいてきて霞が掛かり南アルプスも見えませんでした。2時間の歩きでした。

Dsc01714 赤岩尾根ピーク

別の内容です。3.11が明後日です。忘れてはいけない日です。

東日本大震災後、6年経ちました。忘れないようにと思いながらも、つい遠ざかってしまうことを戒めています。

東日本大震災死者・行方不明者数が減って行くようにと願ってこれまで見てきました。

2011年  3月 28,000人   大震災直後
2011年  6月 23,000人
2011年  9月 19,867人   半年後
2011年 12月 19,334人   
2012年  3月 18,998人   1年後
2012年 10月 18,649人   1年半後
2013年 11月 18,534人   2年半後                           2014年  9月 18,490人   3年半後                                                               2015年  3月 18,475人   4年後
2015年  9月 18,464人   4年半後
2016年  9月 18,451人   5年半後

2017年  3月 18,446人   6年後

行方不明者が発見され、減って行くことを願っています。.何もできませんが、せめて被災地を、3.11という日を忘れないようにし、応援する気持ちを持ち続けて行きたいと思います。

これは全て中日新聞に掲載された人数です。

 

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2017年3月 8日 (水)

座談山(河野村開拓団集団自決)

春の気配を訪ねに近くの座談山に行って来ました。
Zadayamaonemiti_2
葦毛湿原は昨年この時期に見られたアズマヒキガエルのたまごは見られませんでした。

尾根はカタクリもまったく出ていませんでした。かなり霞んでいましたが富士山が見えました。寒い日でしたが多くの人が来ていました。

Dsc01707 富士山 手前は神石山

河野(かわの)村満蒙開拓団集団自決について書きます。 
 
満蒙開拓団集団自決については、これまでに満蒙開拓平和記念館、 麻山事件瑞穂村開拓団集団自決で書いています。

満蒙開拓団は 長野県下伊那郡豊丘村の旧河野村からも送り出されています。河野村では95人が送り出され、中45歳以上の男性21人は軍に召集され、自決したのは女性・老人・子供など73人でした。
 
ただ一人帰って来た男性は当時15歳で今86歳となり、その時のことを語っています。「女性は小さい子供から殺し、手伝ってくれということで、手で子供を締め殺していった。20数人をお手伝いした」

満蒙開拓団とは昭和11年から昭和20年までに幻の国「満州国」に、100万戸500万人を送り出し、1戸あたり20ヘクタールが与えられるという計画でした。 

Dsc08570満州国

河野村の満蒙開拓団戸数27戸95名が村を発ったのは昭和19年8月でした。終戦のたった1年前です。何故、幻の満州国に行ったのでしょうか。 

これには国策がありました。国策は関東軍、拓務省そしてより強い支配力を持つ農林省へと移って行きました。 

国から県、県から村へと移民要請があり、517戸の河野村には50戸の移民要請がありました。 

農林省は分村という強い政策を村に押し付け、ノルマ達成のため14歳の少年1人だけでも送り出されました。結局、河野村からは27戸 95人が満蒙開拓団として満州に渡りました。 

1戸当たり20ヘクタールの地主になれるという新天地でしたが、開拓民が入植したのは、その6割が現地の人から強制的に買収した農地であり、村人には知らされていませんでした。 

昭和20年までに送り出された開拓民は全国で27万人、長野県は3万3千人で突出していました。昭和20年8月9日、満州へのソ連侵入により、悲劇が始まりました。防衛ラインは後退し開拓民は取り残されました。 

開拓団の人たちは広野を逃げ惑います。ソ連軍だけでなく、地元の住民も襲ってきました。河野村満蒙開拓団73人は終戦翌日の8月16日に自決いたしました。

河野村満蒙開拓団民がどうであったかは関東軍、拓務省も戦後無くなり、農林省にも記録は残っておらず、安否も消息も分からない状態でした。 

河野村でも70年間タブーとされ、語られなかったということですが、初めて口を開く人や、村長の日記も見られ分かってきました。 

どうしてこのような事になってしまったか。
「ノルマのみが至上命令となり、顧みられることがなく突き進んでいってしまった。責任欠如の制御不能状態がこのような悲劇となってしまった」
これが実態でした。不決断、無責任がこのような悲惨な事態を招きました。

 

(2016.8.14 放送  NHKスペシャル 「村人は満洲へ送られた 国策 71年目の真実」 より) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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