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2017年3月 8日 (水)

座談山(河野村開拓団集団自決)

春の気配を訪ねに近くの座談山に行って来ました。
Zadayamaonemiti_2
葦毛湿原は昨年この時期に見られたアズマヒキガエルのたまごは見られませんでした。

尾根はカタクリもまったく出ていませんでした。かなり霞んでいましたが富士山が見えました。寒い日でしたが多くの人が来ていました。

Dsc01707 富士山 手前は神石山

河野(かわの)村満蒙開拓団集団自決について書きます。 
 
満蒙開拓団集団自決については、これまでに満蒙開拓平和記念館、 麻山事件瑞穂村開拓団集団自決で書いています。

満蒙開拓団は 長野県下伊那郡豊丘村の旧河野村からも送り出されています。河野村では95人が送り出され、中45歳以上の男性21人は軍に召集され、自決したのは女性・老人・子供など73人でした。
 
ただ一人帰って来た男性は当時15歳で今86歳となり、その時のことを語っています。「女性は小さい子供から殺し、手伝ってくれということで、手で子供を締め殺していった。20数人をお手伝いした」

満蒙開拓団とは昭和11年から昭和20年までに幻の国「満州国」に、100万戸500万人を送り出し、1戸あたり20ヘクタールが与えられるという計画でした。 

Dsc08570満州国

河野村の満蒙開拓団戸数27戸95名が村を発ったのは昭和19年8月でした。終戦のたった1年前です。何故、幻の満州国に行ったのでしょうか。 

これには国策がありました。国策は関東軍、拓務省そしてより強い支配力を持つ農林省へと移って行きました。 

国から県、県から村へと移民要請があり、517戸の河野村には50戸の移民要請がありました。 

農林省は分村という強い政策を村に押し付け、ノルマ達成のため14歳の少年1人だけでも送り出されました。結局、河野村からは27戸 95人が満蒙開拓団として満州に渡りました。 

1戸当たり20ヘクタールの地主になれるという新天地でしたが、開拓民が入植したのは、その6割が現地の人から強制的に買収した農地であり、村人には知らされていませんでした。 

昭和20年までに送り出された開拓民は全国で27万人、長野県は3万3千人で突出していました。昭和20年8月9日、満州へのソ連侵入により、悲劇が始まりました。防衛ラインは後退し開拓民は取り残されました。 

開拓団の人たちは広野を逃げ惑います。ソ連軍だけでなく、地元の住民も襲ってきました。河野村満蒙開拓団73人は終戦翌日の8月16日に自決いたしました。

河野村満蒙開拓団民がどうであったかは関東軍、拓務省も戦後無くなり、農林省にも記録は残っておらず、安否も消息も分からない状態でした。 

河野村でも70年間タブーとされ、語られなかったということですが、初めて口を開く人や、村長の日記も見られ分かってきました。 

どうしてこのような事になってしまったか。
「ノルマのみが至上命令となり、顧みられることがなく突き進んでいってしまった。責任欠如の制御不能状態がこのような悲劇となってしまった」
これが実態でした。不決断、無責任がこのような悲惨な事態を招きました。

 

(2016.8.14 放送  NHKスペシャル 「村人は満洲へ送られた 国策 71年目の真実」 より) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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