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2017年7月 4日 (火)

満蒙開拓 虐げられた女性

今日7月4日の中日新聞に「満蒙開拓 虐げられた女性」というタイトルで特集記事がありました。
戦前、旧満州国に国策として送り出され、敗戦後の逃避行で大勢の犠牲者を出した「満蒙開拓団」。
そこには敗戦直後、開拓団を守るためとして、ソ連兵に対する「性接待」を強いられた若い女性たちがいた。
この事実は開拓団員の引き揚げ後も長く封印され続けてきた。しかし、少なからずの被害者が亡くなり、残る女性たちも高齢となった。
そうした女性たちが最近、重い口を開き始めた。
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東京で暮らす八十九歳の女性は約二年前、戦後七十年を過ぎたところから、つらい記憶をつづり始めた。
 女性は戦前、岐阜県黒川村の「黒川開拓団」の一員として満州に渡った。敗戦直後、ソ連兵への「性接待」を強いられた。当時、十七歳。「ものすごく恥ずかしく、戦争の惨めさをさんざん知った」
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敗戦から約一週間後に進駐してきたソ連軍の襲撃に団員らはおびえた。隣の開拓団は集団自決に追い込まれ、黒川開拓団でも集団自決やむなしの声が上がった。食糧も不足した。

 「奥さんたちには頼めんでね、あんたら独身だけ、どうか頼む」。開拓団の幹部が未婚女性たちにソ連兵への「性接待」を要求したのはそんな時だった。十六~二十歳ぐらいの未婚女性約十五人が集められた。

 食糧の提供を受けるためにも、ソ連兵に女性たちを「差し出す」という。女性は逃げたかったが、団全体の生死が関わる事態に「嫌だ」とは言えなかった。

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この女性は東京で家庭を築いたが、夫には死別するまで「性接待」についてひと言も話さなかった。子どもたちにも言っていない。

 ただ戦後七十年が過ぎ、自らの体験を伝えるべきではないかという気持ちが芽生えた。「このような不潔なことは表に出してはいけないと思ってきた。でも、次第に戦争なんてやるべきではないという声を上げなきゃ、という責務というか気持ちが起きた」

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被害に遭った別の女性(91)=岐阜県在住=も「逃げたいと思うことがどれだけあったか」と振り返る。

「開拓団の係の方に『きょうはあんた出番だで、すまんけど出てくれ』と頼まれた。怖いけど日本に帰らなきゃ、怖い目に遭ってでも、ここでみんなのためにならなきゃ、と思って」

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「私らがここまで生きてこられるとは思いませんでした。こういう歴史も大事な歴史。死んでも忘れません」。現在は三人しか生存者はいないという。

黒川開拓団で終戦当時十歳だった安江菊美さん(82)は「私たちを助けてくださった方々のことを忘れることはできない」と話す。

「旧満州・黒川分村遺族会」は八一年、「性接待」の犠牲になって亡くなった女性たちを慰霊する「乙女の碑」を地元の神社に建立した。安江さんは、そこでしばしば手を合わせる。地元の人でも、この碑の由来を知る人は多くない。

安江さんは当時、幼いながらも「性接待」を知っていた。まきで風呂たきの手伝いをした際、自分たちが風呂に入れると喜ぶと、母親に「娘さんたちがソ連兵のところに行って私たちを助けてくれるのだから、あなたは一生懸命風呂をたきなさい」としかられた。

 栄養失調になった妹の治療のために、医務室に行っていたことで「洗浄」を受けている様子も分かった。

引き揚げ後、遺族会による慰霊祭が開かれてきた。しかし「性接待」が公に語られることはなく、開拓団の記録文集にもそれに触れるような記述はない。

 安江さんが「性接待」も含めた歴史を語り継ごうと決意したのは、被害者の一人の女性が亡くなったことがきっかけだった。仲が良かった九十一歳の女性は亡くなる直前、安江さんに「私たちの犠牲を知らない人たちにも伝えてほしい」と頼んだ。その後、安江さんは「満蒙開拓平和記念館」などで「語り部」として「性接待」についても伝え始めた。

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戦時性暴力に詳しく、NPO法人「社会理論・動態研究所」の猪股祐介研究員は「元団員には『団の恥』という意識が強く、これまで詳しい経緯は語られてこなかった。しかし、慰安婦の問題などが議論され、自身も高齢化する中、体験を歴史に残しておかなければならないという意識が強まった」と話す。

引用が長くなりましたが、新聞1ページ分の記事なのでこれでも端折りました。

戦争を知る世代が少なくなっています。このように直接戦争と関わった世代は90歳位以上であろうと思われます。

75歳以上は戦争を体験しているとは思いますが、戦地や戦場での体験者は少ないでしょう。

このように少なくなっている中で、よくぞ「性接待」について語ってくれたと思います。もはや3人しかいないということです。

満蒙開拓団は、国策によって幻の満州国に27万人が送り込まれました。終戦時、突然のソ連軍侵攻で逃げまどいます。

多くの開拓団が自決しました。その中には自分の子供5人に手をかけ、自分は生きて来なければならなかったという人もいます。また20人の子ども殺す手伝いをしたという当時15歳の少年もいます。

満洲での死者20万人の中、4割が満蒙開拓団員でした。悲惨極まりない状況の中、帰国した人たちも周囲から自己責任のように見られました。

満蒙開拓団員はじっと耐えるしかありませんでした。悲惨で苦労の連続であった満蒙開拓。まだ知らないことがたくさんあると思います。多くのことを知りたいと思います。

このブログには続編があります。

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