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2017年8月

2017年8月30日 (水)

東山(戦後の生活・・・米搗きびん、石臼、防空頭巾)

葦毛(いもう)湿原から二川の東山(258m)に行って来ました。東山は松明峠(たいまつとうげ)とも言います。8月末とは言え、真夏の暑さが続いています。

こんなときですが駐車場は車が30台くらいありました。簡単に登れる山なので、山歩きを楽しんでいる人が多いようです。

Higasiyama_imou

葦毛湿原は花が移り変わっています。10日ほど前はサギソウが一面にありましたが、わずかに残って居る程度です。ミズギボウシ、シラタマホシクサがよく咲いていました。

Dsc02595 葦毛湿原

Dsc02600 サギソウ

Dsc02594 ミズギボウシ

Dsc02592 シラタマホシクサ

それほど急でもない道を登って行きます。ときに木立を吹き抜けてくる風、また尾根道の開けた所に出て当たる風、何とも言えない心地です。これが夏の山歩きの良いところしょうか。

1時間で頂上に着きました。二川の街から太平洋まで広がっています。反対側には豊橋市街が見えます。

Dsc02596 頂上標識

Dsc02598 二川の街と太平洋

駐車場の車が多い割にはこちら側は人が少なく、1人に逢っただけでした。こちら側の尾根道はここで終わりになるので、反対側の尾根道を歩く人が多いのでしょうか。

葦毛湿原には子供達も来ていました。昨日も釣りに行って女河浦の海水浴場を見てみました。15人ほどが居ました。夏の賑わいがはやくになくなってしまうのも寂しいものです。子供達には夏を精一杯楽しんでほしいと思います。

戦前戦後の体験談を以前書いて来ましたが、その補足です。

米搗きびん

「米搗きびん」の画像検索結果

米搗きびん ネットで拝借しました

戦後の頃は、お米が配給制になって玄米のまま配られました。玄米と云うのはもみ殻だけを剥いだままのお米で、表面に薄い皮を被っています。これを白いお米にするのに使いました。

お酒やしょう油が入っていた一升びんの中に玄米入れ、直径が1センチほどの棒を上からさしこんで、上下に動かしてお米とお米をこすり合わせて玄米の薄皮を剥くのです。

薄皮がはがれて糠が混じってくるまで根気よく搗きます。力を入れすぎると底を叩いて最悪の場合は壜の底が抜けてしまいます。

棒でかき回すと早く仕上がるような気がしますが、米が砕けて駄目です。ひたすら上下運動の繰り返しだけです。これも子供が手伝いました。

石臼

「石臼」の画像検索結果

石臼 ネットで拝借しました

戦後の頃には、粉を作るのは家で行っていました。
小麦、米、大豆、そば など何でも石臼で粉にしました。これも子供が手伝いました。石臼を回すのはかなり重いのです。向かい合って二人で回しました。

早く終わらせたいので、穴の中にたくさん入れると外れてしまいます。また回すのは2人が呼吸を合わせて、リズミカルに回さなければ外れてしまいます。

煎った大豆できな粉、煎った麦で香煎(こうせん)を作りました。すぐに食べることのできるものを挽いているときは、気が入りました。

防空頭巾

「防空頭巾」の画像検索結果

防空頭巾 ネットで拝借しました

子供から大人まで誰もが持っていました。中に綿を入れ厚目にしてありました。家で作りました。防空壕に飛び込むときは誰もがかぶって入りました。

警戒警報が出たときもかぶりました。警戒警報が出たときは、役員の人がメガホンで「警戒警報発令」と触れ回りました。防空頭巾には愛着があり、戦後しばらくは持っていました。

 

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2017年8月26日 (土)

続 戦争番組 第2氷川丸

8月21日のブログに、終戦日前後のテレビでの、戦争に関する番組を幾つか書きましたが、その後も戦争番組がありましたので、その続きです。

8月20日 NHK スペシャル 「戦後ゼロ年 東京ブラックホール 1945-1946」
 
8月23日 NHK Eテレ 100分de名著 大岡昇平″野火″第3回「人間を最後に支えるもの」

8月25日 NHK BS1スペシャル 「なぜ悲劇は生まれたのか~写真家・船尾修 満州の旅」

8月25日 NHK 金とく 「追跡 巨大沈没船~若狭湾・隠された秘密」

8月26日 再放送 NHK スペシャル 「戦慄の記録 インパール」


これらも録画しておきました。この中より8月25日放送の 「追跡 巨大沈没船~若狭湾・隠された秘密」を書きます。これも驚きと衝撃の内容でありました。

番組内容には次の説明がありました。

今年3月、NHKは、若狭湾の海底で、巨大な沈没船の水中撮影に成功した。専門家の分析で、終戦直後に原因不明の沈没をとげた「病院船・第二氷川丸」であると分かった。

病院船は、戦時中、敵味方なく負傷兵を治療し、攻撃してはならないとされていた「海の聖域」だった。しかし、船は日本軍の秘密の任務を担っていた。

それは戦後まで尾を引く国際問題に発展していく。沈没船の謎と、戦争の知られざる事実に迫る。」
 

実は、この「病院船 第2氷川丸」はオランダの「病院船 オプテンノール号」を乗っ取り、船名を替えた船でした。

番組の中では次のような証言がありました。

オプテンノール号 乗組員の遺族
「父たちがいる船に日本人が乱入してきました。敵の病院船を襲撃したり破壊することは禁じられています。
病院船には命を救う使命があり、武器も持っていません。攻撃したり押し入ることなど決してあってはならないことです。」

第2氷川丸 元衛生兵
「第2氷川丸は武器の輸送も行っていた。日本はだんだん追い詰められていった。悪い方へ行ったんや。兵器も載せていったね。大砲みたいなもの。それはいかんということくらいのことは知っていました。」

第2氷川丸 元衛生兵
「横須賀から陸軍を500人くらい乗せてニュウブリテン島の基地に下したね。みんな秘密やでね。それでもやっぱり戦争末期になってきたらどうしても隠れた存在でね。内緒で運送しとったんやろね。」

このように武器や兵士を運んでいたのは、第2氷川丸だけでなく、他の3隻の病院船も同じでした。 

第2氷川丸は、終戦3日後の8月18日に、海軍省が若狭湾で自沈させました。違法な軍事使用を隠すためでした。

その後第2氷川丸については、30年にわたる国際問題に発展して行きました。

当ブログは戦前生まれの人間ですが、初めて知ることが多くありました。この一連の戦争番組は、驚きと衝撃の連続でした。

戦後72年も経って、初めて明らかとなったことがたくさんありました。まだまだ戦争のことを多く知りたいと思います。

 

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2017年8月24日 (木)

茶臼山

愛知県豊根村の茶臼山(1,415m)に行って来ました。リフトで萩太郎山に行き、西ルート登山口まで降り、茶臼山を登りリフト下まで降りてきました。

Chausuyama2

苦労もなく萩太郎山に着きました。南アルプスの展望を期待しましたが、雲があり見えません。新しい展望台が造られています。

Dsc02573 萩太郎山から芝桜の丘

Dsc02580 新しい展望台

Dsc02572 萩太郎山から茶臼山

萩太郎山からは茶臼山西ルート登山口まで降り、茶臼山に登ります。今度は萩太郎山がよく見えてきました。

Dsc02591 茶臼山から萩太郎山

自由の広場と名付けられた草原広場を通り頂上に着きました。展望台があります。ちょうどお昼時で2人がお弁当を食べていました。

Dsc02586 茶臼山頂上標識

歩き時間は1時間20分ほどでした。茶臼山高原は愛知県で一番高いところで、暑くもなくさわやかでした。

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2017年8月23日 (水)

嵩山(釣り、処暑)

また低山の嵩山(すやま)に行って来ました。今日は梅田峠から林道を歩き、大岩のあるところから登山道に入り、30分で頂上です。

Suyama3

Dsc02565 林道にある大岩

頂上には7人がいました。暑い時ですが簡単に登れるのでいつも人が来ています。

Dsc02567 嵩山頂上

Dsc02569 嵩山頂上より浜名湖

今日は風があり、疲れた後、風に当たるのは何とも言えない心地です。

山に来る前に釣りに行って来ました。この前と同じ女河浦の桟橋です。2人が釣っていましたが、風があって竿が煽られ、少し釣って止めました。ハゼ3匹です。

Dsc02562 女河浦海岸

女河浦海水浴場は30人ほどおり、賑わっていました。

Dsc02560 女河浦海水浴場

今日は処暑です。二十四節気の一つで、暦の上では夏から秋へと移動して行き、暑さがだんだん収まる頃とされています。

そういえば夜は虫の音が繁く聞こえ、賑やかだった蝉もツクツクホウシに変わっています。海水浴場に人もいなくなるのも間近なことでしょう。

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2017年8月21日 (月)

戦争番組 731細菌部隊

終戦日前後のテレビは戦争に関する番組が幾つかありました。当ブログの気が付いたところでは次のようなのがありました。

8月10日 NHK ドキュメンタリー 昭和の選択「ポツダム宣言受諾 外相東郷重徳・和平への苦闘」

8月12日 NHK スペシャル 「本土空襲 全記録」

8月12日 NHK ETV特集 「原爆と沈黙~長崎浦上の受難」

8月13日 NHK スペシャル 「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験」

8月14日 NHK スペシャル 「樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇」

8月14日 NHK Eテレ 100分de名著 大岡昇平″野火″第2回「兵士たちの戦場経済」

8月15日 NHK スペシャル 「戦慄の記録 インパール」

8月18日 NHK BS1スペシャル 「なぜ日本は焼き尽くされたのか~空軍兵士が語った″真相″」

8月19日 NHK BSプレミアム 華族・最後の戦い 天皇の退位を阻止せよ 東京裁判

8月19日 NHK ETV特集 「描き続けた″くらし″戦争中の庶民の記録」

これらの中で8月15日の「インパール」は録画し忘れましたが、他はいずれも録画しておき見ました。これらのなかには初めて公にされる録音、映像、日記、記録などあり、驚きと衝撃でありました。

この中より8月13日放送の 「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験」を書きます。

関東軍防疫給水部いわゆる731部隊は、1936年に中国北東部ハルビンに設立された細菌兵器を開発する日本軍の秘密部隊でした。細菌兵器は国際法で禁止されています。

終戦後1949年にソ連で開かれた軍事裁判を記録した音声テープがロシアにありました。それは731部隊が、生きた人間を実験材料に使ったという証言でした。犠牲者は3000人とも言われました。

731部隊衛生兵
「びらんガスを人体実験に使用して、手とか足・顔がただれ、紫がかっていたのを留置場で見ました。」

731部隊憲兵隊員
「凍傷実験の中国人を見ますと3人は手の指が黒くなって落ちておりました。残りの2人は骨だけ残っておりました。」

731部隊衛生兵
「砂糖水の中にチフス菌を入れ、強制的に50人ほどに飲ませて細菌に感染させて、そしてその人体実験によって亡くなった人は12・3人だと記憶しています。」

731部隊軍医
「ペスト蚤の実験をする建物があります。その建物の中に4・5人の囚人を入れまして、ペスト蚤を散布させて、そうしてその後、その実験に使った囚人は全部ペストに罹かりました。」

731部隊細菌研究部長
「女性や子供もいました。死に至るまで実行しました。監獄より生きて出た者は1人もいませでした。」

731部隊衛生兵
「チフス菌をスイカやマクワウリに注入して、満州人と支那人 約5・6名の人間に対して食べさせました。全員が感染しました。」

731部隊第一部細菌研究部長
「ペスト菌は主として蚤の形でコレラ菌、パラチフス菌は井戸とか貯水池というようなところに散布されました。」

この731部隊には理学博士とか薬学博士など各界の権威が集まっていました。特に京都大学、東京大学出身の医学者が多くいました。

これは731部隊長と大学の教授たちに深いつながりがありました。高額な研究費が支払われ、研究者個人にも多額の金額が支払われました。こうした中で教授たちは医師を派遣しました。

教授たちの中には部隊の人事に関係した教授もいました。これらの研究者は終戦後早くに日本に逃げ帰り、罪を問われることはありませんでした。その後、金沢大学学長や東大総長になった教授もいました。囚人たちは証拠隠滅のため殺害されました。

 NHK スペシャル 「戦慄の記録 インパール」は8月26日に再放送があるので、また見ることにいたします。

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2017年8月11日 (金)

釣り(海水浴場)

ぶらりと釣りに行ってきました。いつもの湖西市入出です。家からは20分ほどで着きます。特に何を釣るというわけでもありません。海の風に当たってのんびり出来ればというのが半分です。
 
突堤に行ってみました。「山の日」の祝日で多くの人が来ていました。この突堤ではクロダイを特別な仕掛けで狙うならともかく、魚はあまり釣れません。

そこで、近くの女河浦(めがうら)に行ってみました。護岸堤防があり、景色がよくのんびりできます。ここには誰も居ませんでした。桟橋で釣ることにしました。


Dsc02444 女河浦護岸堤防からの眺め

Dsc02446 桟橋

大きいものは来ません。ハゼ狙いです。全く人もいないので釣れないだろうと思い、涼むくらいの気持ちでいました。しかし小さなハゼがよく引きました。これで十分です。

小1時間ほど釣り、小さなハゼ20匹と小さなキビレ2匹でした。時に小雨も降りましたが、これで十分満足です。何でもよいので釣れれば面白いです。

Dsc02460 釣果

この横に女河浦海水浴場があります。今日は賑わっていました。今は海水浴場も少なくなってきました。砂浜になっており、広い海を見ながら泳ぐことができます。プールとは違った趣があります。

Dsc02456 案内板

Dsc02453 女河浦海水浴場

Dsc02454 女河浦海水浴場

女河浦には季節を問わず時々来ています。海が広がり、波が静かで冬には富士山が見えます。女河浦海水浴場は100年くらいになるのでしょうか、昔からある海水浴場です。

どこの海水浴場もそうですが、年々寂れて行きます。ここに来ると懐かしい昔を偲ぶことが出来ます。

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2017年8月10日 (木)

平成29年戦争資料展(庶民の暮らし)

8月は鎮魂の月です。8月6日は広島に、9日は長崎に原爆、7日は豊川海軍工廠の空襲、15日は終戦です。

毎年、豊橋市中央図書館で「平和を求めて」と題して図書館資料展が開かれています。今年は「あの戦争の片すみで」というテーマでした。

Dsc02423 豊橋市中央図書館

Dsc02422 会場入り口案内板

このテーマは映画 「この世界の片隅に」 より採ったということです。この映画については6月27日のブログで書きましたが、SNSなどを通じて評判が広がり、観客動員200万人を超えるヒット作品になりました。

今年の資料展は、この映画の題名に因んで、あの戦争の片すみで の一般庶民の暮らしの中での戦争を取り上げていました。写真は撮影禁止ですが、無料の冊子が置いてありました。

Dsc02424 冊子

小学校、学童疎開、建物疎開、代用品、供出、隣組、児童雑誌、映画、歌などをテーマに、写真、日記、代用品、雑誌、レコード盤など展示・説明してありました。

このなかで建物疎開というのは、焼夷弾攻撃を受けたとき空地を作って類焼を防ぐため、家屋の疎開計画を立てました。豊橋では南と北の通りに建物を壊し空地を作りましたが、6月の大空襲では、市街地の大部分が焼け、防火帯の効果はなかったということです。

またある小学校では、戦争についての学習をしており、高師緑地の見学に行ったということです。そこは陸軍高師原練兵場があったところで、松林が広がり、松脂(まつやに)を採った松の傷跡が残っているということでした。


当ブログは以前松脂について書きました。そのとき豊橋公園に見に行きましたがありませんでした。そこで早速高師緑地の松林に行って来ました。

Dsc02426_2 松脂を採った跡 

Dsc02436 松脂を採った跡

このような松は何十本もありました。太い木は全てと言ってよいほど傷跡がありました。戦後72年です。よくぞ枯れずに来ました。

これは戦争遺産です。昭和の時代はこのような松もよく見ましたが、今では少なくなりました。

この高師公園の松は大事に保護してほしいと思います。平和の尊さをとどめる宝として1本でも多く、末永く残ってほしいと思います。

昨年もこの図書館資料展に来ました。昨年は地元の特攻隊員にスポットを当てた「特攻は今」というテーマでした。ブログに書いております。

 
戦中戦後のことをなるべく多く書きたいと思っています。

 

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2017年8月 7日 (月)

続 満蒙開拓 虐げられた女性

7月4日の中日新聞に「満蒙開拓 虐げられた女性」というタイトルで特集記事があり、その日のブログに「満蒙開拓 性接待」を書きました。

この新聞記事は驚きの記事で、他の新聞にも、この記事があったのか関心のあるところでしたが、8月5日そのテレビ放送がありました。

NHKEテレ ETV特集 「告白・満蒙開拓団の女たち」 というタイトルで 夜11:00~12:00の放映でした。番組内容の紹介は次のようになっていました。


「戦前、満州に入植した650人の岐阜県黒川開拓団は、終戦直後、現地の住民からの襲撃に遭い、集団自決寸前までに追い込まれた。

その時、開拓団が頼ったのは、進行してきたソビエト兵。彼らに護衛してもらう代わりに、15人の未婚女性がソ連兵らを接待した。

戦後70年が過ぎ、打ち明けることがためらわれてきた事実を公表した当事者たち。その重い事実を、残された人々はどう受け止めるのか。」


この放送は名前・顔も出し、実に衝撃の内容でした。特に感じたのは、その人たちは自分は犠牲になっても、他人のことを考える素晴らしい人たちでした。どの人の言葉にも重みがありました。

 
さて、ここでは映像の中で女性たちが語った言葉を中心に書いて行きます。
接待した当時20歳であった92歳の女性は

「娘だけあんたら10人ほどは犠牲になってここをまもらにゃならん と言われた。ソ連兵に引っ張り回されました。めちゃくちゃ 頭の中はくしゃくしゃでした。
理屈ではない。生きて帰るにはどうするか。私ら犠牲になっても。もしもだめなら死んでいくんやし。」

お父さんのことを聞かれて

「命があって日本へ帰らないかん。辛くても頑張れ と言っていました。お父さんは帰りたくても日本へ帰らんと病気で亡くなりました。母と弟は帰っても。
父はすごく立派でした。何もかも立派に考えていました。」


当時18歳で89歳になる女性は

「接待という時は酒・ウォッカとかやれ  と言われていたからそれくらいに思っていたら、お布団がズラーと敷いてあった。連れてきた女を手を引いて寝ろ じゃない 汚いものを触るみたいに鉄砲の先で私たちを動かした。
お母さんお母さんと泣くだけ。みんな17・18歳。下の方じゃ友達と手をつないで「頑張りなね」しか言えない。
涙は夜流すもんって我慢してきた。」

当時21歳で昨年89歳で亡くなった女性は既に4年前からこの体験を公の場で話し初めていました。満蒙開拓記念館で語り部としてビデオを残していました。

「じぶんの命を捨てるか開拓団の子どもをお救いするかは娘たちの肩にかかっていると思ったんですね。何としても日本へ帰りたい命を救いたい。
私どもは悲しかったけども、開拓団の命を救うために娘たちは泣きながら、ソ連将校の相手をしなければいけないことになって、そんな目にあって帰ってきた。
ボロボロになって心の中に寝ても覚めても忘れられない。
ときどき夢にうなされ跳び起きる」

この女性には4歳下の妹がいました。その妹の分まで接待に出向いていました。4歳違いのその妹は

「姉は私の分まで務めるで と言って接待に出なくてもいい と言った。18歳以上って決めたのは姉さんらしかった。私は数えの17歳になっとった。」

妹は接待に出た姉の体を洗う洗浄係りでした。

「零下30度ぐらい下がるでね。寒い時は冷たかったやろうけど。洗浄に使ったのは軍隊のうがい薬。リンゲルの瓶に入れてホースを通して入れてやると子宮まで届く。可哀そうやったけども洗浄しとかんと性病拾ったり、妊娠したりするで」

女性たちの多くは数か月後に梅毒や淋病に侵されました。15人の中4人は現地で亡くなりました。

引き上げる途中でも、鉄橋が破壊され、中国人から「渡し船に乗るのに女を差し出せ」と要求され、要求に応じています。

黒川開拓団は650人の中450人が帰国しました。48ほどの開拓集団が自決する中、黒川開拓団は博多港に帰国しました。そこでは数多くの女性たちの中絶手術が行われました。

帰国してからも苦労は続きました。「満洲帰りの人はろくなことがない、女はいろいろなことに遭っとる」という目で見られ、なかなか結婚も出来ませんでした。
 
満蒙開拓については当ブログは6回ほど書いて来ました。

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2017年8月 6日 (日)

広島・長崎 原子爆弾の違い

1945年の今日8月6日、広島に原爆が投下されました。3日後の8月9日には長崎にも原爆が投下されました。このとき当ブログは5歳1ケ月でしたので、原爆投下は分かりませんでした。

その後、当時はピカドンと呼ばれたこの原爆を知るようになりました。とてつもない威力の新型爆弾でした。

広島と長崎に落とされた原爆は、種類の違う原爆でした。広島に投下された原子爆弾はウラン、長崎に落とされた原子爆弾はプルトニウムでした。原爆はこの2つ材料しか核分裂が起こりません。水爆はまた違う仕組みです。

核分裂するウランは、量が少ないと原爆にはなりません。およそ22kg以上で核分裂の連鎖反応が持続します。例えば15kgのウランは連鎖反応しませんが、15kgを2つ用意しておき、それを一緒にすれば連鎖反応が持続し、ものすごい爆発を起こします。これが原爆です。

もう一つの原爆の材料のプルトニウムは自然界には極微量にしか存在しません。原子炉で生成されます。ウランに比べると少ない量でも核分裂の連鎖を引き起こします。

したがってこのプルトニウムを小分けにしておき、それぞれに起爆剤を添え、一度に中心部に集めて爆発をさせます。

核分裂を引き起こすプルトニウムの量は、ウランに比べると半分ほどで済むので、小型化できます。したがってミサイルなど核兵器にはこのプルトニウムが使われています。

さて、とにかくこの核兵器は無くさなければなりません。人工衛星から地球見て、「地球は宇宙のオアシスだ」 と言われました。その時は地球規模で核廃絶の機運が高まりましたが、また後退しているように思えます。

現在核弾頭数は、ロシア 7500、アメリカ 7200、フランス 300、・・・(米科学者連合 2015) となっています。

核兵器のないきれいな地球は、地球の当たり前の姿です。子供たちにきれいな地球を引き渡さなければなりません。青く小さな地球、核廃絶は国を越えて行うことです。1日でも早く廃絶してほしいものです。




 

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2017年8月 3日 (木)

大崩海岸

静岡市用宗と焼津市を結ぶ大崩海岸に県道416号があります。この道は難所を通る道で海上にも道が造られています。

Ookuzure2_2

この海岸線の道を通ってみたく、昨年5月13日に行ってみましたが、通行止めでした。既に3年ほど前から通れないようでした。

通れるようになったか調べてみると平成29年3月13日に開通をしていました。そこで今日再びその道に行ってみました。

 静岡側から焼津側へ走りました。静岡側用宗(もちむね)から大崩海岸となります。すぐに海上を渡る橋となります。

Dsc02408 海上橋

この海上橋は、旧道が崩れてしまったために海に張り出して作られた橋です。なかなかこのような橋は見られません。富山県の親不知で見たような感じがします。
 
Dsc02413海上橋

海上橋の横には旧道の洞門が見えます。土砂崩れで洞門の一部は土砂に埋まっています。

Dsc02407 旧道の洞門

Dsc02409 土砂に埋まった洞門

この 海上橋の前には駿河湾が広がっています。右が御前崎、左が伊豆半島になります。

Dsc02405 御前崎

Dsc02415 伊豆半島

海上橋から焼津に向かいます。いくつかの洞門を通り、トンネルに入りました。これが崩落した旧道の山側に造られた「浜当目トンネル」です。

残念ですが、駐車する場所がありません。写真を撮ることが出来ません。トンネルとなり景観を見ることも出来なくなりましたが、905mでそれほど長いトンネルではありません。

焼津に出ると「焼津グランドホテル」があります。ここには1度宿泊したことがあります。景色の素晴らしいところです。 

大崩海岸のこの道路は今の国道150号ができる前の旧国道150号です。新国道150号は日本坂トンネルが出来、この道は県道となりました。

断崖絶壁で、何度も通行止めになっている難所の道です。土砂崩れ、崩壊、波の浸食、地滑り、これらに耐えてできた道、見応えがあります。

この大崩海岸海岸道路に来る前、用宗港でしらす丼を食べました。テント張りで、漁港の潮風を受けながら新鮮なしらす丼を食べる、何とも素朴でおいしいものでした。

Dsc02399_2 丼の店

Dsc02402_2 テント食堂

Dsc02401_2 値段表

近くには漁協の売店があり、釜揚げしらすなど海産物を売っています。帰りには焼津漁港にも寄ってみました。やはり海産物を売る店があります。

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