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2017年10月

2017年10月29日 (日)

戦後の生活・・・三角ベース

戦後の頃の遊びに次のようなのがありました。

野球、チャンバラ、かくれんぼ、鬼ごっこ、縄跳び、石けり、缶けり、紙鉄砲、水鉄砲、独楽まわし、カッチン(ビー玉)、ケン(メンコ)、釘さし、竹馬、カッポン、凧づくり、ゴムパチンコ、タガ廻し、蛍狩り、虫捕り、魚釣り、雑魚掬い、水泳、砂遊び、折り紙、将棋、かるた、遊戯(花いちもんめ、かごめかごめ、はじめの一歩など)、押しくらまんじゅう、馬跳び

女子では ゴム跳び、お手玉、鞠つき、羽根つき、あやとり、ままごと 

この中で一番行ったのは野球でした。野球と言っても「三角ベース」というやり方でした。「三角ベース」について説明します。

「三角ベース」は2塁(あるいは3塁)のない野球です。人数が少ないときに行います。人数は1チーム6人ほどであればよいのですが、いつもそんなに集まりません。全部で6人位でした。

守備チームはピッチャー、1塁、3塁の守りに付き、攻撃チームはバッター、ランナーですが、キャッチャーや球拾いもしました。

小学校低学年の頃はやわらかいゴムのボールを手のひらで打ちましたが、高学年になってくると硬いボールを自分で作り、木を削ったバットで打ちました。

近くの空き地で行いましたが、ボールが道路まで飛んで行っても交通はあまり心配ではありませんでした。道はたまに人や荷車が通るくらいでした。

このボール作りには手を掛けました。ぼろきれを芯にし糸を巻き付けます。またぼろきれを巻き、糸を巻き付けます。できる限り硬いボールにします。

最後は8の字に切った布を縫い合わせますが、ボールの大きさと布が一致せず苦労しました。薄い布しかなくすぐに破れてしまいました。

この「三角ベース」は全国どこでも行われていたようです。戦後の頃は野球が普及し、プロ野球もあって人気がありました。

今では子供の遊びもすっかり変わってしまいました。「三角ベース」という言葉も無くなってしまったでしょう。この言葉を聞くとその頃のことを思い出します。

台風22号は今日夕刻伊豆沖を通過し、海上を関東沖に進んで行きました。風はあまり吹きませんでしたが、大雨が降りました。

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2017年10月23日 (月)

戦後の生活・・・映画

戦後の頃の娯楽に映画がありました。その頃当ブログが住んでいた街には映画館はなく芝居小屋でした。芝居小屋は回り舞台を備えたあの懐かしい建物です。

 
芝居小屋  ネットで拝借しました
「芝居小屋」の画像検索結果 芝居小屋の中  ネットで拝借しました

わが街の芝居小屋は、上の写真ほど立派ではありませんでしたが、造りは同じです。戦後の頃には芝居はほとんど行われておらず、映画がほとんどでした。学校の学芸会にも使われていました。
 
子供ですからいつも映画を観に行けるわけではありません。名作の映画も掛かりましたが、入場料が高く、観に行ったことはほとんどありません。「7人の侍」が掛かったときは、中学校からまとまって観に行きました。

小学校の頃は3本立てで入場料の安い映画ばかりでした。そのような映画はチャンバラとか母ものでした。

映画は白黒で、始めにオマケのような感じで5分間位「 日本ニュース」 が映し出されました。中身は、折々のニュースや世相、話題などでしたが、子供でも面白く見られました。

チャンバラ映画の内容は覚えていませんが、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、月形龍之介、市川右太衛門らが人気俳優でした。

これらの俳優が緊迫した場面に現れると拍手が起こりました。それだけ真剣に観ていたと思います。その頃の遊びもチャンバラでした。またケン(メンコ)の絵もこれらの俳優が多くありました。

母もの映画は3本立ての中に組まれていたのでよく観ました。三益愛子主演が多かったように思います。ほとんど忘れましたが「母○○」というような題名のもの多かったと思います。

その頃の映画はいつもフィルムが2・3回は切れました。次に始まったときは場面が跳んでいました。

映画は遊びの延長で、たまに見に行った程度です。学校の校庭では夜スクリーンを作り、「ナトコ映画」が行われました。


「ナトコ」とは16ミリ映写機のことで、太平洋戦争終結後の連合軍による民主化促進プログラムとして行われた啓蒙活動です。

「ナトコ」はNational Company製の映写機からとった名であり、教育映画の浸透の為、レンタルされた映写機です。

戦後娯楽がなかった時代、映画は最高の娯楽でした。たまにしか見れなかったですが、芝居小屋も、校庭に張ったスクリーンも懐かしい想い出として残っています

台風21号は今日未明御前崎付近に上陸しました。上陸時期は91年以降では最も遅い台風だったようです。

今朝は晴れ上がりました。富士山が見えるのではないかと浜名湖の瀬戸に行ってみました。昼頃だったので富士山の上の方は雲の中でした。

Pa230008 富士山

浜名湖はまだ台風の余波があり、遊歩道に波が打ち寄せておりました。

Pa230004 遊歩道に打ち寄せる波   土砂も打ち寄せられていた

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2017年10月22日 (日)

無差別空襲

当ブログは戦争を経験した最後の世代となりつつあります。戦中戦後のことを書いています。

当ブログは戦前に生まれ、敗戦のときは5歳でした。住まいは豊橋と浜松の中間ほどの田舎町に住んでいました。近くの都市では豊橋・浜松 、岡崎が空襲を受けています。

アメリカ軍による日本本土空襲は、昭和19(1944)年末から激しくなり、最終的には無差別攻撃となりました。無差別攻撃は国際法で禁止されています。

無差別攻撃で多くの民間人が殺されています。父親からも戦闘機に狙われたことを聞いています。


「防空壕を出て一人で歩いていると、近くでブスブスと音がした。薄紫のけむりが見えた。咄嗟に地面に身を伏せて助かった。」 この時以外にも、もう1度狙われたそうです。

このような事は他の人からも聞いています
。「明らかに自分を狙って撃って来た。飛行機に乗っている戦闘員の顔まで見えた。」

また近くの現 田原市豊島では、終戦前日に現 豊橋鉄道の渥美線が空襲を受け、乗客15人以上が死んでいます。このことは最近まで詳しく分かっていませんでした。

民間人と分かっているのにアメリカ軍は何故攻撃して来たのでしょうか。当ブログはこれが疑問でした。

しかし、今年8月に放送された戦争番組 NHK BS1スペシャル 「なぜ日本は焼き尽くされたのか」で分かりました。

アメリカはそれまで戦果があがらず焦っていました。そこで無差別攻撃に出、民間人も殺傷し、すべてを焼き尽くす戦法に出たのです。小さな子供までが対照でした。

戦後72年経って知ることも多くあります。戦争で被害者となり、そのことを覚えている人は80歳以上になってきています。今、初めて口を開く被害者も多くいます。

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2017年10月20日 (金)

戦後の生活・・・ラジオ放送

戦後の頃は一家での楽しみと言えばラジオでした。真空管式のラジオでときどき音が出なくなり、叩けば直るという代物でした。

戦後の頃のラジオ放送で特に耳に残っているのが「尋ね人」です。「尋ね人」は第2次世界大戦
で連絡不能になった人の特徴を記した手紙の内容をアナウンサーが朗読する時間でした。
 
昭和19年当時、ハルピンで〇〇に従事していた××さんの消息をご存じの方は、日本放送協会「尋ね人」の係へご連絡下さい。』というような放送が連日されていました。

「尋ね人」は 1946年(昭和21年)から1962年(昭和37年)まで行われました。また、「興安丸」という引揚船が舞鶴に入港というニュースもよく聞きました。

子供向け放送番組として、「笛吹童子」、「紅孔雀」がありました。この放送は夕刻に始まり、遊びの最中の時間でしたが、自分の家に戻って聞きました。放送が終った後また遊びました。

「笛吹童子」は1953年(昭和28年)に、「紅孔雀」は1954年(昭和29年)に放送されました。当ブログは小学校高学年でした。

「笛吹童子」の歌「♬ ヒャラーリ ヒャラリコ ヒャリーコ ヒャラレロ 誰が吹くのか不思議な笛だ・・・」、「紅孔雀」の歌「♬ まだ見ぬ国に住むという 紅き翼の孔雀鳥・・・」、これらの歌は今でも歌えます。

この頃は日の暮れるまで遊んでいました。家から夕飯だという声が掛かり、それで帰りました。
 
 

 

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2017年10月19日 (木)

戦後の生活・・・童謡

 

当ブログの家には戦後、蓄音機がありました。レコード盤はほとんどが浪花節ばかりでした。おじいさんのものであったようです。

ただ1枚「絵日傘」の童謡がありました。これは3歳上の姉のために買ったようです。このレコードはすれ切れるほど聞きました。

この蓄音機は、中のゼンマイの回転体が欲しくて、当ブログが高校生の頃、壊してしまいました。今ではそのままにしておけばよかったと後悔しています。

さて戦後の頃、よく聞いた童謡について書きます。これはたくさんあるので選ぶのに困ってしまいますが、特に懐かしく思っているのを挙げると「仲良し小道」(昭和14年)、「うれしいひなまつり」(昭和10年)、「リンゴのひとりごと」(昭和15年)があります。

この歌に共通するのは、作曲者はいづれも河村光陽です。歌はその人の好みですから、当ブログの好みを書いているだけです。

懐かしく好きな童謡は他にもたくさんあります。揚げればきりありません。童謡歌手は川田正子、川田孝子、松島トモ子、古賀さと子、近藤圭子、小鳩くるみ、安田祥子、安田章子、伴久美子などの名を知っています。

童謡は何時、何処で覚えたのか記憶にありません。当ブログは幼稚園には行っていません。幼稚園は良いとこの子が行っているような感じでした。保育園は当時はありませんでした。やはり小学校でしょうか。

幼いころ馴染んだ歌は心を和ませてくれます。これら童謡に出合ったことに感謝しています。童謡はいい歌ばかりです。是非受け継いで行きたいものです。

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2017年10月17日 (火)

井山祐太 2回目の囲碁7冠

将棋では中学生の藤井聡太がデビューから29連勝し、将棋ブームが起こっています。

囲碁には井山祐太(いやまゆうた)という恐ろしく強い囲碁棋士がいます。
当ブログは将棋はあまり知りませんが、ヘボ碁をかじっており、囲碁が大好きです。

今日10月17日、名人戦7番勝負で井山祐太は高尾紳路(たかおしんじ)名人を4勝1敗で下し、名人位を奪還しました。これで井山祐太は2回目の7冠となりました。これは囲碁、将棋界で初めてのことです。

囲碁には7大棋戦があり、昨年まで井山はそのタイトルを独占しておりました。しかし、名人位を高尾紳路に奪われ、6冠となってしまいました。

これまでの囲碁界で7冠になったのは井山祐太が初めてです。7冠になることは至難なことであり、気が遠くなるほどです。

7冠を達成するには、持っているタイトルをすべて防衛し、持っていない棋戦に対しては、そのタイトルの挑戦者になり、勝たねばなりません。

井山が1回目の7冠を達成したときは、その前のところで4冠まで後退しました。その時は7冠になることは誰も出来ないことなのだと思いました。

しかし、その後信じられないほどの強さで井山は7冠となりました。驚異的でありました。人間業ではないと思いました。これは以前のブログに書きました。

そして今度6冠をすべて防衛し、名人位の挑戦者となり、そして今日、名人位を勝ち取りました。井山はこの7冠という至難なことを2回もやり遂げたのです。

井山は若干28歳の好青年です。井山からは沢山の楽しみをもらっています。井山の1ファンとしてこれからも応援し続けて行きたいと思います。

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2017年10月12日 (木)

富幕山(戦後の生活・・・たきぎ造り)

静岡県引佐(いなさ)町の富幕山(とんまくやま)に行って来ました。マツムシソウやノコンギクが咲き、ススキが風になびいていました。

Dsc02743 マツムシソウ

Dsc02735 ノコンギク

Dsc02745 富幕山頂上

一番珍しかったのはアサギマダラの乱舞が見られたことです。

Dsc02748 アサギマダラ

アサギマダラは大型の蝶で長距離を移動することで知られています。日本から南西諸島や台湾まで旅するといわれています。春から夏にかけて南から北へ移動し、秋になると南下するということです。

それまでは、ひたすら栄養補給をします。今日はアザミの花のあるところにたくさん集まっていました。

帰りに新城市冨岡で毎年行われているコスモス園に寄りました。ちょうど満開でたくさんの人が来ていました。

また今はキンモクセイの良い香りが漂っています。

Dsc02753 新城市冨岡のコスモス園

ここからは戦後の頃の生活について書きます。

薪(たきぎ)造り

戦後の頃は、煮炊きは釜土でした。釜土は燃料を確保するのが大変です。ごうかき、枝拾いなどは子供の仕事であり、遊びでもありました。

薪はいつも蓄えておかねばなりません。ときに廃材や丸太が手に入りましたが、主として薪を買ったり、製材で出る端材を買いに行ったりしていました。

当時は製材屋が多く、我が家では高価な薪より、製材の端材を多く買っていました。リヤカーで買いに行きましたが、積みこむのとリヤカーを引くのが大変で、子供皆で手伝っていました。

関連画像端材  ネットで拝借しました

それからが大変です。端材を適当な大きさにノコギリで切ります。これが子供の仕事でもありました。太い端材はなかなか切れません。嫌になってしまいます。

端材を切った後は割って行きます。マキ割は日常の仕事でした。小さな端材は鉈で割れますが、大きな端材はオノ(マサカリ、ヨキ)で割ります。この方が切るよりはかなり面白くやれます。

関連画像オノ  ネットで拝借しました

丸太や大きな薪など割るとき、一回で割れるとスカッとしますが、大抵は食い込んでしまいます。食い込むとオノを外すのに苦労します。

他に燃料としては炭、練炭などあり、七輪(しちりん)で使いました。これは高価なので、特別なときしか使いませんでした。。火鉢やコタツは消し炭(けしずみ)を使っていました。消し炭は消壺(けしつぼ)に入れ使えるようにしておきました。

関連画像 消壺  ネットで拝借しました

薪造りと違うことに触れますが、我が家には大きなノコギリがあります。100年ほど前のものと思われます。おじいさんの時代のものと思われます。

Dsc02728 我が家に残っている大ノコギリ

板を挽くためのノコギリです。ノコギリで引いて行くとき、くさびを入れ引いて行きます。大変さは薪を切る比ではなかったでしょう。

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