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2017年12月

2017年12月28日 (木)

ラクダ岩

湖西市の梅田公園登山口からラクダ岩に富士山を見に行って来ました。駐車場は車がいっぱいです。 

Toyohasiumeda2

50分で着きました。果たして富士山は見えました。

Dsc00246 富士山

Dsc00253 富士山

Dsc00254 浜名湖

昨日は初雪が降りました。平地では全く積もりませんでしたが山では積もったようです。登山道のところどころに雪がありました。この辺りで雪が積もるのは珍しいことです。

Dsc00256 登山道の雪

1時間30ほどの歩きでした。

登山口の所に新池という池があります。9月中頃は水がありましたが、下旬には水が抜かれ耐震の工事が進んでいました。

今日で工事も終わったようです。大きなクレーンが入り片付けが進んでいました。工事の変化を見るのも興味ありました。

Dsc02663 9月14日の新池

P9270008 9月27日の新池

P9270004 工事の看板

Dsc00244 12月28日の新池

今度行くときはまた水が蓄えられていることと思います。以前は魚を釣っている人を何時も見かけました。また憩いの場となって行くことと思います。

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2017年12月25日 (月)

赤岩尾根(戦後の生活・・・懐かしの映画)

 家から赤岩尾根西ピークまで行き、一周して来ました。頼朝が上洛する際に通った鎌倉街道の一部です。多米側から登り、乗小路峠からピークへ行き、乗小路へ下りました。

Akaiwatakayama4  

Dsc00232 赤岩尾根西ピーク

 Dsc00233 登山道を降りた所
 
 展望は全くありません。1時間20分ほどの歩きでした。
 

別の話になります。
 
先日、原節子主演の映画がテレビでありました。3本ありましたがいずれも録画しておいて、その後すぐ観ました。1度はどれも見たことがあります。
 
それは1949年(昭和24年)制作の「青い山脈 (監督 小津安二郎)、1951年(昭和26年)制作の「麦秋(監督 小津安二郎)、1954年(昭和29年)制作の「山の音」(監督 成瀬巳喜男)でした。この映画が造られたころは当ブログは小学生でした。
 
これらの映画は昭和20年代作品で、時代背景は自分の幼い頃とぴったりと合います。またこれらの映画の内容は、今の時代とかけ離れているわけではありません。不思議なほど一致してます。観るのは2回目ですが内容を忘れていることもあり、どれを見ても大変感動をいたしました。
 
これら以外にもこの時代の映画はたくさんあります。昭和20・30年代の作品で、今までに見た中から、大変感動した小津監督と木下監督の映画を10作品とり上げてみました。
これは全く自分の好みで書きましたこれらがまた再放送されることを願っています。
  
年代順
1949年(昭和24年) 晩春」 (監督 小津安二郎)
1953年(昭和28年) 東京物語」 (監督 小津安二郎)
1954年(昭和29年) 二十四の瞳」 (監督 木下恵介)
1955年(昭和30年) 野菊のごとき君なりき」  (監督 木下恵介)
1957年(昭和32年) 喜びも悲しみも幾歳月」 (監督 木下恵介)
1957年(昭和32年) 東京暮色」 (監督 小津安二郎)
1958年(昭和33年) 彼岸花」 (監督 小津安二郎)
1960年(昭和35年) 秋日和」 (監督 小津安二郎)
1961年(昭和36年) 小早川家の秋」 (監督 小津安二郎)
1962年(昭和37年) 秋刀魚の味」 (監督 小津安二郎)
 
 
 

 

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2017年12月24日 (日)

戦後の生活・・・飛行機ガラス

戦後の頃は日の暮れるまで遊び回りました。公園や遊具などありません。空き地で遊び、棒でも何でも遊び道具となりました。

遊び道具の中で道に落ちていたガラスの破片をこするとよい匂いをするのがありました。これを“飛行機ガラス”とか“匂いガラス”と呼んでいました。
 
落ちていたその厚めのガラス破片を布とかでこすると甘い匂いがするのです。ほのかにミカンとかリンゴの匂いするのです。これを大事に玉手箱に入れている子もいました。
 
これはアクリルガラスでした。アクリルガラスの成分のセルロイドや不純物がこすると匂いを発するということです。
 
アクリルガラスの破片がなぜ落ちていたかというと、戦争中に戦闘で墜落された飛行機のアクリルの風防ガラスが散乱したということです。しかし、飛行機が墜落したなど聞いたこともありません。どこかから運ばれてきたのでしょうか。
 
ネットで調べていると1986年にNHKのドラマスペシャルで「匂いガラス」というドラマがあったようです。このドラマに飛行機ガラス(匂いガラス)」が出て来るということでした。
 
このドラマのガラスは色の着いた瓶のかけらのようでした。ドラマの作者も1945年生まれで、当ブログとほぼ同年代ですから、飛行機ガラス(匂いガラス)」を当時拾ったようです。

a0118411_2294870.jpg

飛行機ガラス(匂いガラス)  ネットで拝借しました
 

当ブログも飛行機の風防ガラスというよりも、アクリルガラスで出来た瓶のかけらを拾ったように思えます。
 
 こんな物まで拾って遊び、一生懸命こすって匂いを嗅ぎ、ミカンやリンゴを食べたような気になっていました。
 
しかしその後アクリルガラスは窓にもはめられるようになりましたが、このようなにおいがしたと思ったことがありません。

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2017年12月22日 (金)

富士見岩(冬至)

今日は冬至です。風も無く空は晴れ渡っています。湖西市のおちば公園から富士見岩に行って来ました。

Fujimiiwaootibatouge

9時半でしたが、登っている人も何人かいます。1時間で頂上です。富士山、南アルプスが見えました。浜名湖も見えます。

Dsc00210富士見岩頂上

Dsc00217 富士山

Dsc00219 南アルプス  右から聖、赤石、悪沢

Dsc00211 浜名湖

帰りはそのまま進み大知波峠を通って一周しました。

Dsc00225 大知波峠

今日は日中の時間が一番短いですが、日の入りが一番早く、日の出が一番遅いわけではありません。

日の入りが一番早いのは12月1日頃で、日の出が一番遅いのは1月1日頃です。冬至にはカボチャを食べ、柚子湯に浸かるとよいということです。今夜は柚子湯に入ることにします。 

おちば公園にせんだんの木があります。冬の青空を背に、葉を落とし実だけの樹が映えています。

Dsc00227 せんだん

以前にも書きましたが、せんだんは優しさがあるような気がして好きな木です。それは実が落ちる前に葉が落ちることです。先に落ちた葉が実を育みます。

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2017年12月19日 (火)

戦後の生活・・・小学校入学(墨塗り教科書)

当ブログの小学校入学は昭和22年(1947年)4月でした。日本の敗戦は昭和20年(1945年)8月でしたから、敗戦後2年目でした。

この間に学制改革もあり、日本は敗戦後の大きな変わり目の年でした。下の表のように国民学校は小学校に変わりました。

旧学制:1946年(昭和21年)度 新学制:1947年(昭和22年)度
06歳-07歳 国民学校初等科1年 小学校1年
 (ウィキペディアより)
 
当ブログは幼稚園にも行っていなかったので、小学校入学はたいへん緊張していました。小学校入学したときのクラスの集合写真はコチコチで映っています。写真はこのときが最初でした。 

担任の先生もよく覚えています。縣賀寿先生でした。やさしい女の先生でその後何の不安もなく小学校1年生を送ることが出来ました。

この年は国民学校は廃止されましたから、教科書も新しい教科書が出されました。国語の教科書の最初は今でも覚えています。「みんないいこ」という題でした。
 
おはなを かざる みんな いい こ  きれいな ことば みんな いい こ  なかよし こよし みんな いい こ」

という絵の付いた暖かい文章で書かれていました。
 
当ブログの入学前、敗戦直後の昭和20年9月からの教科書はGHQによって否定され、戦争教材や国家主義的なページは墨で塗りつぶして使われました。

当ブログは新学制でしたから、教科書をそのようにしたことはありませんでしたが、3歳上の姉の教科書はその時は墨で塗られた“墨塗り教科書”でした。


関連画像
墨塗り教科書  ネットで拝借しました

小学校は高台にありました。入学式のときは母に連れられて行きました。街が一望でき、校庭の周りの桜が満開でした。校舎はあのなつかしい木造校舎でした。
 

別の話になります。
石巻山に行って来ました。家から10分ほどのところにある低山です。石灰岩の山で季節にはオドリコソウで有名です。城跡もあります。

Dsc00202 石巻山頂上から三河湾方向の眺め

Dsc00206 石巻山城跡と書いてあります

Dsc00207 城跡説明板

1時間ほどの歩きでした。

 

 

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2017年12月17日 (日)

戦後の生活・・・真空管

戦後15年、昭和34年(1959年)寮生活をしていた大学1・2年生頃の話になります。戦後やっと立ち直りかけて来た頃です。

その頃はラジオは真空管でした。真空管でラジオやアンプを作るのが流行りでした。

ラジオは5球スーパーラジオを作りました。部品はパーツ屋に出かけ、買い集めました。部品数は多く、規格に合う部品を手に入れるのが難儀でした。

5球スーパーラジオ  ネットで拝借しました

シャーシ(部品を付ける台)はアルミ製で穴開けなどもすべて自分で行いました。加工する道具も揃えました。一番使用する道具はハンダごてでした。



アンプも作りました。アンプはレコードをかけるときの増幅器を言います。良い音を出すため出力管(真空管)にこだわりました。

アンプ  ネットで拝借しました

アンプは3台ほど造りました。いろいろ作り替えたので、部品の抵抗やコンデンサーはみるみる溜まって行きました。スピーカーの大きな箱も作りました。

アマチュア無線機も作りました。アマチュア無線家をハムと呼び、その頃は流行りでした。アマチュア無線機は受信機と送信機を備えています。

「真空管アマチュア無線機写真」の画像検索結果

アマチュア無線機   ネットで拝借しました

当ブログも資格を取り、「JA2DQJ」というコールサインを持っています。アマチュア無線独特の呼びかけをしますと誰かが答えてくれます。 初めて交信が出来たときの喜びは忘れることが出来ません。

今でもこのコールサイン使うことが出来ますが、無線機も無くなり、50年以上行っていません。

 

テレビも作りました。これはそれほどでもありません。キットになっていました。全部品が揃っており、組み立てて行くばかりになっています。テレビはもちろん白黒で、真空管でした。

当時寮生活をしており、寮の仲間の前で初めて映ったときは皆が喜んでくれました。やはり映ったときは感激でした。

関連画像

テレビ  ネットで拝借しました

その頃はテレビも広く復旧しておらず、珍しがられました。金がかかったように思われるかもしれませんが、親からは援助を受けていません。バイトで得た金です。

 

その後の電気製品の進歩は著しいものがあります。このように部品から扱うということは今は無くなってきていると思います。こんな世の中になるとは想像もできませんでした。

今は真空管を知る人も少なくなってきています。真空管、トランジスタ、半導体、IC回路 へと進展を供に出来たことをうれしく思っています。

 

今日は二川の東山に行って来ました。駐車場の車が多いのにはびっくりしました。葦毛湿原は荒涼としておりました。

Dsc00195 葦毛湿原

Dsc00197 東山頂上

寒さは厳しいですが、この寒さに耐えて歩くのは気持ちよいものです。2時間ほどの歩きでした。

 

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2017年12月14日 (木)

戦後の生活・・・畑

戦後我が家には畑や田んぼはありませんでしたが、父親が農家の出で、幸い父の実家から畑3畝(約300㎡)、田んぼ5畝(約500㎡)借りていました。

当ブログはそんなことは知りませんでしたから、物心ついたころから自分の家の物ばかりだと思っていました。

小学6年生位のとき、急に田も畑も無くなり、借りていたことを知りました。そのときは分かりませんでしたが、この畑・田んぼが戦後の我が家の生活を支えたと思います。

しかし子供ですから、あまり生活のことなど考えません。結構手伝いをさせられ、野良仕事は嫌でした。作物の種まきから収穫まで一通りのことはよく見て知っています。

田んぼは田植えと稲刈りを手伝いました。これは以前のブログに書きました。
には特に芋と小麦を植えました。これらは主食です。芋の苗は屋敷の苗床で作りました

作物を育てるには肥料をやらなければなりません。肥料は下肥でした。下肥は貴重でした。農家では作物と交換して下肥を得ていました。

下肥は肥桶で運びます。“こよおけ“とよんでいました。天秤棒の前と後ろに肥桶をぶら下げ、それぞれの桶の紐を持ち、調子をとりながら歩きます。肥柄杓(こえびしゃく)も持って行きます。

関連画像肥桶の運搬 ネットで拝借しました

子供では桶が地面に着いてしまい駄目です。女性や年寄りは2人で担ぎます。肥が桶の中でピチャピチャと跳ね返るので蓋をしなければなりません。

また畑には肥溜めがありました。肥は発酵されると臭いも無くなり、よい肥となります。瓶が埋め込んであるだけですから、ときどきこの肥溜めに人が落ちました。

因みに当ブログは落ちたことはありませんが、落ちた人を見たことはあります。

関連画像肥溜め ネットで拝借しました

芋は護国芋(ごこくいも)というのを作りました。これは水っぽくて甘みの無い芋でした。味よりも量ということで、国を護る芋と名付けられたようです。

pre_02.jpg護国芋 ネットで拝借しました

麦は、麦踏のときは面白くできました。普段踏んではいけない作物を踏むのですから、堂々とした気持ちでした。

また病気の黒穂が出来たときは、その穂をためらいなく抜くことがきました。その穂で麦笛を作って遊びました。収穫した後は麦殻で篭を作ったりしました。

麦は石臼で粉にしました。粉をうどんやすいとんにして食べました。家には野菜畑もあったので、借りた土地には主食を作りました。

終戦直後の頃は芋や大根の入ったご飯でしたが、やがて麦の入ったご飯となり、白米だけになったのは大分後になってからです。白米は今でもあたりまえでないような気がします。

今では米を除いてはこれらの作物も作られなくなり、農作業風景も変わりました。時代が変わろうと食べ物は大切にしなければなりません。食べ物を粗末にすることは堪えられません。
  

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2017年12月12日 (火)

戦争番組 インパール作戦

12月10日 NHKBS1 スペシャル 「戦慄の記録 インパール完全版」の放送がありました。

インパール作戦については、前回は
8月15日に NHK スペシャル 「戦慄の記録 インパール」で放送され見ています。前回は45分の放送で、今回は110分の完全版でした。
 
NHKBS1 スペシャル 「戦慄の記録 インパール完全版」の内容説明は次のようになっていました。

太平洋戦争で最も無謀と言われるインパール作戦。この夏、その全貌を描き大きな反響を呼んだNHKスペシャルに、さらに詳細な記録を加えた完全版。
 
1944年3月、日本軍はイギリスなど連合軍の拠点インド・インパールの攻略を企図し無謀な作戦を決行した。9万人の将兵が川幅600メートル、2000メートル級の山岳地帯を越え、インパールを目指した。しかし、誰一人たどり着けず、死者3万人、傷病者4万という大敗北を喫した。
撤退路には倒れた兵士が重なり、その道は白骨街道と呼ばれた。この夏、悲惨な戦いの全貌を描き大きな反響を呼んだNHKスペシャルの完全版。

このほどイギリスに保管されていたインパール戦についての資料、映像、音声テープがあることが分かりました。

また日本で見つかった新たな資料や従軍した人たちの証言、現地の人たち証言も多くありました。ここでは番組の中の証言の一部を紹介したいと思います。

第33師団通信隊元上等兵(96)
「一緒に連れて行ってくれ」と言ったわけですよ。「ああいいよ」って言って簡単に言ったんだけども、5m歩きゃ休み、これじゃね、こっちがとても持たないから「こんなことしたらこっちが参っちゃうんだ」「だから悪いけどよ、おれたちはこっちに・・・」悪いことしたなって 申し訳なかったって もう本当にね いつもね。

現地 フリングさん(89)
この村では多くの日本人が亡くなった。至る所に遺体があった。この村だけでも200人以上の日本兵が死んだ。

第31師団第58聯隊元曹長(97)
インドヒョウが人間を食うてるとこ見たことあったよ。2回も3回も見ることあった。ハゲタカもそうだよ。転ばないうちは 人間が立って歩いているうちは ハゲタカもかかってこねえけども、転んでしまえば駄目だ。いきなり飛びついてくる。

第31師団衛生隊元上等兵(94)
1人でいると肉切って食われちゃうじゃん。日本人同士で殺してさ その肉をもって 物々交換とか それだけ落ちぶれていたわけだよ 日本軍がね 友軍の肉を切ってとって物々交換したり売りに行ったりね そんな軍隊だった それがインパール戦だ。

第31師団山砲兵第31聯隊元上等兵(95)
剣を心臓にぶち込んだ。ぶち込む力はなかったけどな 剣を上に向けといてな 自分の体を上に乗せたんよ。もうあっという間じゃったわな。 これはわしも実際のことは絶対話さなんだんよ。 お母さんがおったけんな かわいそうだけんな。
病気で死んだぐらいしか言わなんだ。

第33師団第214連帯元兵長(96)
死ぬことが珍しいことじゃないんだから 死ぬことが本望だったんだから 兵隊がね まあ無残というか 残酷というか 今になって考えたら 何のための戦争 何のためにやったんだかね むなしいもんだよね。

第15軍司令部少尉(96)
日本の軍人がこれだけ死ねば陣地が取れる。自分たちが計画した戦が成功した。だから日本の軍隊の上層部が悔しいけれど兵隊に対する考えはそんなもんです。だからその内実を知っちゃたら辛いです。

戦後72年、驚愕の内容でした。証言者は80・90代の人たちです。よくぞ証言してくれたと思います。これが5年・10年後であればこのような事実は出てこなかったことになります。

また現地で証言してくれた人たちも高齢で素朴な人たちでした。恨んでいるようなところはありませんでした。
 
第15軍牟田口司令官の言葉「味方5000人殺せば敵陣地一つを獲れる」。これが軍司令部の考えでした。兵士を物と考えていました。 

12月8日は太平洋戦争開戦の日でしたが、なぜこのような無謀な戦争に突入していったか大分見えて来ました。
 
ノルマのみが至上命令となり、顧みられることがなく突き進んで行きました。責任欠如の制御不能状態がこのような悲劇となってしまいました。
 
 これが実態でした。不決断、無責任がこのような悲惨な事態を招きました。


戦中戦後の出来事についてはホームページをご覧ください。

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2017年12月11日 (月)

戦後の生活・・・風呂

戦後の我が家にも風呂がありました。しかし何時も沸かすわけではありません。燃料や水は貴重でした。

家で風呂を沸かすのは子供の仕事でもありました。当ブログの家は井戸で、釣瓶(つるべ)で水を汲んでいました。大きめのバケツで水を運びます。風呂はそのバケツで5・6回運んだでしょうか。埋める水も用意しておきます。

沸かすのも大変でした。なかなか薪に火が付かず煙にむせながら沸かします。煙突からは黙々と煙が出ています。夕刻になると釜土と両方でどこの家もこのような光景でした。

風呂は五右衛門風呂で底板を沈めて入ります。うっかり底板を沈めないと大変なことになります。鉄の釜に足裏が触れ、やけどです。最初に入る人が底板を沈めます。底板は下でひっ掛けるようになっています。

五右衛門風呂五右衛門風呂  ネットで拝借しました

風呂に最初に入るには気を使います。最初は熱いのです。それがあまり埋めるわけにもゆきません。身を縮めて少しづつ入って行くしかありません。

また風呂場は隙間だらけで風が入り込み、冬は修行のようなものでしたこんなふうで風呂に入るのも楽しくはありませんでした。

身体を洗うにはかなだらい(昔の洗面器)2杯ほどしか使えません。後の人のために長く入っていることも出来ません。また熱いので入っている気にもなりません。

出るときは洗っていた手拭い(タオルはなかった)を絞って身体を拭きます。バスタオルなどしゃれたものはありませんでした。

あまりに冷めると次の人のとき沸かしますが、なるべく家族6人が1回で入ってしまえるようになっていました。後入った方が良いのですが、何か男が先に入るようになっていました。

入り終わったふろ水は洗濯に使ったこともありますし、残しておいて翌日にまた沸かしたこともあります。これは労力が大変というのでなく、水が貴重なからでした。

風呂は何時も沸かしたのではなく、ときどき遊び仲間と銭湯に行きました。銭湯も熱かったですが遊びの続きでした。わいわいがやがや行き、帰ってきました。

そのときから70年経った今は水の量から温度調節までボタン一つです。湯も使いたい放題、これでよいのかと思ってしまいます。水道であれ、風呂水であれ、大切にせねばという気はいつもあります。

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2017年12月 8日 (金)

中伊豆の旅(太平洋戦争開戦日)

中伊豆の旅に行って来ました。交通網が整備され、伊豆も豊橋から日帰りの範囲となってきましたが、修善寺に宿をとりゆったりと観光旅行をしてきました。

 

建設関係の好きな当ブログは、先ず三島市笹原の「三島スカイウォーク」に行きました。日本で最も長い歩行者専用の吊り橋です。三島から箱根に向かう国道1号沿いにあります。

 

 

 

Dsc00074 富士山は雲の中

 

 

 

「三島スカイウォーク」は静岡県にパチンコ店を展開する会社が、総工費約40億円をかけて建設しました。構造は、長さ400m、主塔高さ44m、歩道幅1.6mです。車いすのすれ違いも出来ます。(ウィキペディアより)

 

Dsc00080 中ほどの所は地面からの高さ70.6m

 

Dsc00083アンカー

 

 

 

 

 

 

 

Dsc00084 アンカー上から主塔2本の眺め

 

Dsc00086 駿河湾、沼津アルプスなど見えます

 

 

 

 

 

営業開始は2015年12月です。それまでは大分県九重町にある「九重夢大吊橋」が長さ390mで最長でした。

 

平成26年に伊豆縦貫自動車道が開通しました。伊豆へのアクセスが良くなる反面、三島が単なる通過点となってしまうことへの危惧もあって建設されました。

 

次に「伊豆の国パノラマパーク」に行きました。これは伊豆長岡の葛城山(かつらぎやま)にあります。葛城山は360度の展望があります。

 

ロープウェイがあり、簡単に452mの山頂に行けます。駿河湾や富士山の眺めが素晴らしいところです。沼津アルプス、愛鷹(あしたか)山塊、箱根の山々も見えます。

 

Dsc00166葛城山から富士山と駿河湾

 

 

 

 

 

 

 

Dsc00156 富士山

 

 

 

 

 

 

 

以前に葛城山の隣の山 発端丈山(ほったんじょうざん 410m)と城山(じょうやま 342m)まで歩いたことがあります。それぞれ1時間および40分ほどで行けます。

 

修善寺の「虹の郷」も行ってみました。まだ紅葉が見られました。ディズニーランドと同じくらいの広さの園内を歩いて一周し、額縁富士も見ることが出来ました。

 

 

 

Dsc00135 虹の郷の園内

 

 

 

Dsc00140 紅葉

 

 

 

 

 

Dsc00147
額縁富士

 

修善寺温泉街も散策しました。有名な「とっこの湯」、「竹林の小径」も紅葉が見られました。

 

 

 

Dsc00123 とっこの湯

 

 

 

Dsc00118
竹林の小径

 

 

 

 

 

Dsc00120 小径の紅葉

 

 

 

Dsc00121 小路の紅葉

 

 

 

Dsc00122 桂橋の紅葉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この他、沼津深海水族館、三島大社にも寄りました。天気が良く素晴らしい富士山や紅葉を楽しむことが出来ました。

 

 

 

今日は日米開戦から76年目の日です。1941年(昭和16年)12月8日、日本はハワイの真珠湾を攻撃し、戦争を始めました当ブログはこのときは1歳5ケ月でしたから開戦については全く分かりません。

 

なぜこんな無謀な戦争をはじめたのか。今日の中日新聞社説にも触れられていました。当時のアメリカとの国力差は国民総生産で十二倍、石油保有量は七百倍以上も差があったということです。

 

12月8日は忘れてはならない日です。とにかく戦前生まれの人間としては負の遺産をしっかり伝えて行かねばと思っています。

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2017年12月 5日 (火)

吉祥山(大和の大イチョウ)

豊川の「大和の大イチョウ」を見ながら、吉祥山に登って来ました。「大和の大イチョウ」に近い林道登山口から登りました。

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30分で頂上です。曇っていて富士山や南アルプスは見えません。奥三河の山や近くの山は見えています。
 

Dsc00056 奥三河の山

帰りは林道を下り戻りました。

次に、毎年見に行っている豊川市豊津町割田大和の「大和の大イチョウ」を見に行きました。時季は丁度良いときで、今年も見事な黄葉でした。打ち出の小槌の形に似ており、かってに小槌のイチョウなどと呼んでおります。

Dsc00059 大イチョウ1

Dsc00062 大イチョウ2
Dsc00066 大イチョウ3

Dsc00061 大イチョウ4

毎年見に来ていますが、見事な大木にはいつも感動しています。以前にも書きましたが、このイチョウは1923年(大正12年)に大和尋常高等小学校の竣工記念として植えられました。今年で94年になります。

当ブログがこのイチョウを初めて知ったのは2008年です。翌年の2009年には台風で酷い目に遭いました。枝が折れ打ち出の小槌が半分欠けたようになってしまいました

しかし地元の方々の手厚い保護活動により、見事に回復して来ました。以来12年間、この大和の大イチョウを見続けていますが、最初に見た形のイチョウに戻ってきており、うれしい限りです。

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