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2019年5月

2019年5月31日 (金)

地方都市の戦中戦後⑮ 食糧難・・A 

「ある地方都市から見た戦争」と題して 戦中戦後のことを書いています。その15回目です。(三ケ日町史より抜粋)

食糧難・・A

 戦後の昭和20年から21年にかけて、食糧事情は昭和20年の稲作の凶作と、海外から700万人に及ぶ引き揚げが見込まれたことなどによって、きわめて緊迫した事態を迎え、従来の1人1日2合1勺の配給を維持することが難しい状況であった。しかも、その2合1勺の大部分はサツマイモであった。とにかく1食、茶碗1杯分しかなかった。主要代食の、ジャガイモ、サツマイモ、大豆、豆かす、などが配給されると、その分だけ米の配給が減らされる仕組みであった。
 野菜の配給は、1日1人当たり75g、魚は4日に1度、鰯1尾の程度であった。カロリーで計算すると合計1200カロリーであったから、戦前の2160カロリーの半分程度にすぎなかった。
 一般家庭の畑や菜園から作物が盗まれたり、野荒らしが横行し、果ては殺人にもなるという社会不安がつのり、食用危機をどのように突破するかが、最も重大でかつ緊急な課題となった。農家には供出の完納から、さらに追い打ち供出を呼びかけ「米1升・ジャガイモ1個でも」と窮状を訴えた。
 人々は食料を求めて農村へ農村へと殺到して来た。ところが食料品は最も大切な貴重品であるため、法外な金か、物々交換でしか手に入れることが出来ず、タンスに残っていた晴れ着は、僅かな食料に変えられ、農村に流れた。このようにして飢えを防ぐため、いわゆる「タケノコ生活」が続いたのである。当三ヶ日町の農家へも二俣線を利用して、名古屋・豊橋・浜松方面からの買い出し部隊が殺到した。このため闇値が高騰し、地元の人々には、かえって手に入らないという状態が起こってきた。
 
砂糖も貴重品で、畑にサトウキビを作り、それを絞って砂糖にした。三ヶ日町にも下尾奈(しもおな)などに4・5ケ所絞る小工場が出来た。

 

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2019年5月30日 (木)

地方都市の戦中戦後⑭ 新憲法の成立 

「ある地方都市から見た戦争」と題して 戦中戦後のことを書いています。その14回目です。(三ケ日町史より抜粋)

新憲法の成立

 日本はこれから先どうなるだろうかと危ぶまれたものである。やがて占領軍がどんどん上陸してくる。軍隊は解散させられる。海外にいた軍人、邦人は帰還する。戦争犯罪者、職業軍人、軍国主義者、国家主義者は公職を追放される。朝鮮、台湾、南樺太などの領土は日本の手から離れる。政治も経済も古い機構は片っ端からくつがえり、すべて占領軍の管理政策によって根本的に変わった。
 昭和21年元旦、天皇は自ら「人間天皇」を宣言された。天皇はそれまで「現人神(あらひとがみ)」的存在とされていたが、神ではないと否定された。
 昭和21年11月3日、新しい「日本国憲法」が公布され、翌22年5月3日から実施された。この憲法によって主権在民がはっきり打ち出され、国民の選んだ衆議院・参議院からなる国会が国の政治を行い、国民の意思に基づく民主政治が行われるようになり、ここに民主日本の大本が確立した。

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2019年5月29日 (水)

地方都市の戦中戦後⑬ 無条件降伏

「ある地方都市から見た戦争」と題して 戦中戦後のことを書いています。その13回目です。(三ケ日町史より抜粋)

無条件降伏

 「国破れて山河在り」当時これほど人に親しまれた詩はなかろう。昭和20年8月15日、太平洋戦争は終わった。暑い暑いその日の正午、日本国民はラジオの前にかしこまって、天皇陛下の放送を聞いた。言葉はよく聞き取れなかったが、戦争に敗れたことはなんとなくわかった。悔しいと強く思った。反面、これで空襲が無くなるとも感ぜられた。太平洋戦争は日本の無条件降伏によって終わったのである。
 ある者は敗戦を信じなくて自らの命を絶った。また、ある者はこれで平和になると、久し振りに笑顔を見せた。いずれにしても日本人にとっては、大きなショックであることは間違いなく不安の連続であった。

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2019年5月28日 (火)

地方都市の戦中戦後⑫ 軍国主義の崩壊

「ある地方都市から見た戦争」と題して 戦中戦後のことを書いています。その12回目です。(三ケ日町史より抜粋)

日本の軍国主義の崩壊

 昭和20年8月15日はよく晴れた蒸し暑い日であった。ラジオは朝早くから「正午に重大ニュースを発表する。」と繰り返し放送していた。本土決戦か、戦争を止めるのだろうか、それぞれの異なった考えを持って正午の放送を待った。
 放送によって流れる声は、町民いまだ耳にしたことのない天皇による終戦の放送であった。「朕(ちん)は帝国の政府をして米・英・支(中国)・蘇(ソ連)4国に対し、その共同宣言(ポツダム宣言)を受諾する旨、通告せしめたり。」「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以って万世の為に太平を開かんとす。」天皇の御声は日本の家庭に、工場に、町から村へと広がった。「今までの勝ち抜くまでは」の緊張は一転して、全身の力が抜け、虚脱の状態であった。
 昭和6年の満州事変以来、中華民国の排日運動の激化により昭和12年の日華事変(日中戦争、盧溝橋事件)は中国全土に広がり、昭和16年12月8日米英両国に宣戦を布告して太平洋戦争となった。
 旧三ヶ日町・東浜名村では祖国のため640有余の尊い命が失われた。内訳は満州事変3柱、日華事変(日中戦争)65柱、太平洋戦争574柱であった。 

 

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2019年5月27日 (月)

地方都市の戦中戦後⑪ 米機の来襲

「ある地方都市から見た戦争」と題して 戦中戦後のことを書いています。その11回目です。(三ケ日町史より抜粋)

米機の来襲

 昭和19年12月、3日、9日、18日と空襲警報が発令され、白い飛行機雲を引いて西北にB29が飛び去った。これが本土上空に現れた最初の米機であった。
 昭和20年1月14日には三ヶ日町上尾奈(かみおな)御料林にB29から爆弾数十発の無差別投下があったが人畜には被害が無かった。サイパンを基地とするB29の来襲は昭和20年1月から激しくなり、しかも浜名湖が一つの目標となり、本土侵入の通過地となっていた。
 昭和20年6月19〜20日 深夜、豊橋市に大空襲があり、三ヶ日町からも西南の夜空が赤々と輝くのを目の当たりにした。
 最初は軍需工場や軍事施設を狙った爆弾投下が、非戦闘員の人家を狙っての無差別爆撃となった。日本の高射砲の弾も届かず、これを迎撃する戦闘機も殆ど姿を見せなかった。
 常に北上するB29は志摩半島から侵入し、浜名湖付近から去ることが多かった。特に軍事基地を持つ浜松市内は、実に27回に及ぶ爆撃を受け、昭和20年6月18日、B29約50機の焼夷弾攻撃で焦土と化した。また浜松市は同年7月29日夜9時頃から1時間に亘り、遠州灘の米軍から艦砲射撃を受けた。この艦砲射撃はすさまじいもので、強烈な響きと弾道の火線が見え、三ヶ日町民は安全な地点を求めて避難した。幸い三ヶ日町は艦砲射撃による被害は受けなかった。
 同年8月7日には豊川海軍工廠(こうしょう)が爆撃を受け、三ヶ日町からも動員学徒、女子挺身(ていしん)隊員、徴用工員で召集された多数の中から16名の尊い犠牲者を出した。
 

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2019年5月26日 (日)

地方都市の戦中戦後⑩ 本土決戦体制

「ある地方都市から見た戦争」と題して 戦中戦後のことを書いています。その10回目です。(三ケ日町史より抜粋)

本土決戦体制

 昭和19年11月フィリピンのレイテ島に米軍が上陸し、昭和20年2月には日本軍のフィリピン戦線は全面撤退のやむなきに至った。同年3月硫黄島の日本軍の玉砕により、B29の基地は一層接近し、本土襲来が容易になり、米軍の本土進攻作戦が急速に進められた。
 昭和20年4月には沖縄上陸するや、戦局の重大化に伴い、本土決戦に備えて、国民を総動員する「国民義勇隊」が組織された。義勇兵は男子は16歳~61歳、女子は17歳~41歳までで、必要に応じて武器を持って戦う「国民戦闘隊」であった。市町村ごとに組織がつくられた。
 本土決戦に備えて、遠州灘に上陸の可能性があるとして、海岸一帯に飛行97部隊、鋭敏戦車隊、護国師団、怒部隊があり、これに国民戦闘隊が合流して、一億玉砕の構えであった。

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2019年5月25日 (土)

東京見物

東京見物を昨日して来ました。

厳しい山に登るのは体力も気力も無くなって来ました。今は小さな里山をわずかに登っている程度です。山に行っている頃は、関東や秩父など東京周辺の山も車で行っていました。東京都心も通りましたがほとんど通過でした。新幹線に乗ることもこの10年以上ありませんでした。

そこで気のあるうちにと思って、新幹線で日帰りの東京見物に行って来ました。東京見物も行ったことがありますがもう30年ほど前です。

行程は多くのコースがあり、簡単に予約できる「はとバス」から選びました。一度行ってみたかった「東京スカイツリーと墨田川12橋めぐり」というコースにしました。コースには他に「浅草観音」が入っています。

新幹線で東京見物など平凡な旅ですが、東京は久しぶりなので新鮮でした。5月24日は暑く東京は30.2度という真夏日でした。トランプ大統領が25日来日するので、東京駅周辺は物々しく警戒されていました。

Dsc03185 東京スカイツリー

写真は動画にまとめましたので見て下さい。

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地方都市の戦中戦後⑨ 戦線の後退

「ある地方都市から見た戦争」と題して 戦中戦後のことを書いています。その9回目です。(三ケ日町史より抜粋)

戦線の後退

 昭和18年6月ミッドウェイ―開戦の敗北をきっかけに、翌19年2月ガダルカナル島撤退を開始し、ここを境に日本軍は完全に守勢に転じたのである。
 昭和19年7月にサイパン島が米軍の手に落ち、ここを米軍はB29の基地としたため、日本本土爆撃は射程距離内に入った。従って米軍による本土襲来は昭和19年11月から連日におよび、首都東京をはじめ、各都市はつぎつぎに爆撃破壊されていった。
 また昭和19年2月、「決戦非常措置要綱」の決定によって、学徒動員、女子強制動員が行われるようになった。学徒動員を主体とする神風特攻隊の出撃が始まった。
 昭和19年12月、B29が始めて三ヶ日町の上空に現れ、空襲警報が発令された。昭和19年12月7日東南海大地震が発生し、被害甚大であったが、戦時中のため実情は国民に知らせなかった。三ヶ日町は傾いた家屋を出したものの、被害は軽微であった。

 

 

 

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2019年5月24日 (金)

地方都市の戦中戦後⑧ 婦人活動

「ある地方都市から見た戦争」と題して 戦中戦後のことを書いています。その8回目です。(三ケ日町史より抜粋) 

銃後の婦人活動

 昭和7年10月に「大日本国防婦人会」が創立されたが、昭和6年の満州事変以後、女子青年団と共に銃後の守りを固めるために、出征軍人や遺家族の援護にあたる目的で発足した。
 昭和17年7月からは「大日本婦人会」(婦人会)と名称を変え、旧三ヶ日町にもその支部が出来た。婦人会は、応召兵の無事を祈って寅年生まれの人の家を回り千人針作りをした。出征兵士は村の鎮守様で1戸1人は必ず出て歓送会があったが、各駅頭までは小学生の旗行列と「大日本婦人会」と書いた白たすき姿の婦人会が続いた。遺骨帰還のときは、町民や婦人会は駅頭まで英霊を迎えに出た。
 合同慰霊祭は町村主催で国民学校校庭で盛大に挙行され、婦人会役員は必ず参加するのが例であった。婦人会は本土決戦に備えて、竹槍の使い方、射撃訓練なども行った。

 

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2019年5月23日 (木)

地方都市の戦中戦後⑦ 学童の生活

「ある地方都市から見た戦争」と題して 戦中戦後のことを書いています。その7回目です。(三ケ日町史より抜粋)

戦時中の学童の生活

 戦時下の学童生活は、先ず朝近所の神社や街の辻や広場に集落別に集合し、高等科の上級生の指示で2列に並んで集団登校した。校門脇には週番が立ち、防空頭巾や胸の名札服装を点検し、忘れ物をチェックした。校門に入って先ず、御真影(ごしんえい)の安置されている奉安殿(ほうあんでん)と二宮尊徳像に最敬礼をする。
 学童の服装は男子は、ズボンにシャツ、セーター、女子はモンペに綿入れのチャンチャンコ、セーターであった。履物はズック靴、下駄ばき、わらぞうりであった。ズック靴は2ケ月に1回、5・6足がクラスに配給され、くじ引きとした。
 かばんは必ず肩に掛け、防空頭巾と共に持参するよう命令されたものである。名札は必ず縫い付け、血液型も記入させられていた。
 授業は修身の時間には教育勅語(きょういくちよくご)、国史では歴代天皇の御名前の暗誦であった。
外国語は一斉追放され、それに代わって軍人援護の教育が徹底され、町出身の軍人に対しては慰問文や慰問袋を発送した。昭和16年12月の太平洋戦争勃発以降からは出征兵士の見送り、帰還兵や英霊の出迎えが頻繁に行われた。
 昭和19年9月には東京市立南六郷国民学校の児童100人が集団疎開してきて三ヶ日町大福寺に宿泊した。三ヶ日町の婦人会も月2回疎開児童のために勤労奉仕をした。
 昭和19年ころから学校においても、防空壕堀り作業が本格的に行われ、退避訓練が行われた。授業中、警戒警報が発令されると、かばんを持ち防空頭巾をかぶって、班別の所定の位置に集合。空襲警報になると近所の者は自宅へ駆け戻る。解除で再び登校あるいは解散となった。戦争が激しくなった昭和19年12月から終戦まで空襲警報で授業はほとんどできない状態となった。
 昭和19年12月から浜名湖上空にサイパン島からB29が現れ、連日空襲警報の発令される有様となった。昭和20年2月には太平洋近海に接近した米艦隊から、艦載機(かんさいき)P51が低空で遠州灘から侵入し、浜松航空隊を中心に三ケ日町上空にも飛来した。同年6月には東浜名村国民学校に午前9時頃P51が急襲し、校舎や奉安殿に無数の弾痕を残して去った。幸い児童は帰宅し事故は無かったが、付近にいた住民1名が銃撃を受け死亡した。 

 

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2019年5月22日 (水)

地方都市の戦中戦後➅ 防空監視

「ある地方都市から見た戦争」と題して 戦中戦後のことを書いています。その6回目です。(三ケ日町史より抜粋)

防空監視

 昭和12年4月、「防空法・防空委員会法」が制定され、県防空計画に基づき、県下各地に監視哨(しょう)が網の目のように張り巡らされ、敵機来襲に備えた。
 三ヶ日町の稲荷山に監視哨が昭和18年に設置され、哨員には在郷軍人または青年学校や実業学校の生徒をあてた。昼夜を分かたず監視にあたり、県西部の浜松防空監視隊本部と連絡を取ったり、町村に警報を発した。
 各家庭では防火用水を備え、砂袋、バケツ、むしろ、火叩きなどを用意し、防空壕を掘るなど細かい注意と義務付けがされた。防空頭巾は常に身近に置き、夜間に備えて懐中電灯、負傷に備えて家庭常備薬など近くに置き、隣組を中心に防空監視や消火訓練を実施し空襲に備えた。これらの準備と訓練を総括する隣組長の責任は重かった。
 昭和19年7月サイパン島の全員玉砕により、米空軍の基地となりB29の来襲が始まり、同年12月には連日、空襲警報が発令される始末で、一層緊迫の度を加え、監視哨の責務はいよいよ重大となった。昭和20年に入ると、浜名湖北一帯に満洲より移駐した鋭敏部隊(戦車隊)が防空監視にあたった。

 当ブログは小学生の頃、家から10mほどの所に砂場があり、そこでよく遊びました。そこは河口でトンコ船が弁天島から砂を運んでくる場所でした。その場所を「カンシジョウ」と呼んでいました。カンシジョウの意味も分からず、その場所をなぜカンシジョウというのかも気にもしませんでした。そこには監視哨があったと思われます。親に聞いておけばよかったと悔やまれます。

 

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2019年5月21日 (火)

地方都市の戦中戦後⑤ 金属類の供出

「ある地方都市から見た戦争」と題して 戦中戦後のことを書いています。その5回目です。(三ケ日町史より抜粋)

金属類の供出 

 軍需生産に最も必要な資材は鉄・銅であった。このため古鉄材をはじめ、橋の欄干の古鉄は切り取られ、生活に必要な鍋・釜に至るまで供出するになった。小さくは学童の徽章(きしょう)やボタンまでも回収され、それらは木や紙に変わった。各部落の鉄骨の火の見やぐらも供出され木造になり、各寺院の釣り鐘も供出された。
 東浜名村国民学校の二宮尊徳(にのみやそんとく)像は昭和17年4月に応召(おうしょう)献納式が行われ、「応召中」という立て札と変わった。三ケ日町国民学校の尊徳像は昭和18年1月に応召し台座だけとなった。
 各家庭でも不要な鉄・銅の器具資材はほとんど供出され、軍需工場に運ばれた。
 校庭では戦局が激しくなると共に、青年や在卿軍人の軍事訓練が、そしてモンペ姿の婦人会員の竹槍を振っての訓練光景が見られた。



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2019年5月20日 (月)

地方都市の戦中戦後④ 衣生活

「ある地方都市から見た戦争」と題して 戦中戦後のことを書いています。その4回目です。(三ケ日町史より抜粋)

戦時下の衣生活

 衣料品も昭和15年10月に切符制となり、隣組単位で配給が行われ、作業服1着揃えると1年分の点数が消えていった。
 モンペはもともと東北あたりの農村の仕事着であった。それが戦争が始まると、日本中の女性の服装になってしまった。
 防空頭巾は昔の火事装束にヒントを得ている。これも隣組の防空演習に出るときの女性の一種の戦時服装だったが、やがて学童は登下校時には肩にかけ、働く男や女にも欠かせない重要な生命を守る道具となった。
 リュックは戦中戦後は買い出しには大いに役立った。雑のう(肩から掛ける雑多なものを入れる袋)には常に三角巾や救急用品、貯金通帳、家庭備品、少しの食糧をいれて用意されていた。
 靴は皮からズック(厚手の平織生地)靴となった。しかしズック靴も手に入らなかった。学生用ズック靴は学校で配給した。地下足袋も不足しており、農業者に対しては町村を通じて隣組に配給されたが、年間1足程度であった。
 男子は国防色と言われていたカーキ色の国民服に戦帽といった出で立ちで、日常活動に便利な服装が必要とされ、防空訓練、勤労奉仕などの戦時体制の服装となり、これは一般町民の服装でもあり礼服でもあった。

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2019年5月19日 (日)

地方都市の戦中戦後③ 食生活

「ある地方都市から見た戦争」と題して 戦中戦後のことを書いています。その3回目です。(三ケ日町史より抜粋)

戦時下の食生活

 戦争下、孤立状態の日本は食糧増産が重要な問題となり、空き地はもとより、国民学校の校庭まで掘り起こしてサツマイモや麦を作った。ミカン園の一部も強制的に伐採し食糧増産に向けた。
 まず主食米は、昭和15年度産米から申告制となり、だんだん統制が強化され、配給も厳しくなった。その後麦やサツマイモも主要食糧として供出制となった。
 昭和16年4月「生活必需物資統制令」が公布され、戦争の緊迫化とともに配給制となった。米、麦、塩、醤油、味噌、砂糖、大豆、食用油、酒など家庭の必需品が、配給手帳や切符で買わなければならなくなった。実際には配給量では足りないため、ほとんどの必需品が配給以外は闇値で買うことが横行した。
 米は玄米で支給され、一升瓶の中に玄米を入れて、瓶の口から棒で着く精米法が流行した。
 戦争の激化とともに、食糧事情は一層窮屈になり、溝の縁に映えているギシギシとか、ユキノシタ、サツマイモの葉まで雑炊に焚きこんで食べる有様となった。

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2019年5月18日 (土)

地方都市の戦中戦後② 翼賛政治体制

「ある地方都市から見た戦争」と題して 戦中戦後のことを書いています。その2回目です。(三ケ日町史より抜粋) 

翼賛政治体制の確立 

 昭和17年4月衆議院議員選挙から、政府に協力的な議員で国会を固めるため、この選挙を大東亜戦争完遂のための「翼賛選挙」と言い、推薦制による選挙を行った。その推薦する母体を「翼賛政治体制協議会」といい、静岡県でも同年3月支部が結成され、主な役員を大政翼賛会関係者で固めた。5月には「翼賛政治会」が結成され、県下の市町村会議員選挙が一斉に行われた。旧三ヶ日町、東浜名村ともに翼賛選挙運動の趣旨に沿って、無投票当選の形をとって、議員の任期を延長した。
 これより先、昭和17年1月には、「大日本翼賛壮年団」(翼壮)が結成され、4月の総選挙、5月の町村会議員選挙に積極的な活動を行い、 大政翼賛会の別動隊として大いに幅をきかせた。
 また「翼壮」の活動は、町内会を通じて、米・麦・芋などの食糧増産運動や、金属供出の音頭をとった。郡にも引佐郡翼賛壮年団の支部を結成し、郡町村を挙げてあくまで勝ち抜くために、国の施策に協力するほかなかった。
 昭和18年には地方制度の大幅改正で、国―県―町村―町内会と上から下への行政的強化を図った。


 

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2019年5月17日 (金)

地方都市の戦中戦後① 太平洋戦争開始

5月1日から令和の時代となりました。昭和から平成を経て時代も変わって来ました。戦後生まれの人口も84%となり、太平洋戦争を経験した人も少なくなってきました。太平洋戦争は歴史上の過去の出来事として忘れられつつあります。

太平洋戦争が始まったのは昭和16年12月8日、戦争が終ったのは昭和20年8月15日でした。当ブログは昭和15年7月生まれです。知る限り戦争のことを伝えて行きたいと思っています。

これまで「戦中戦後の頃」について80話ほど書いて来ましたが、乏しい体験で書くことも尽きてしまいましたので、今度は当ブログが当時住んでいた静岡県引佐(いなさ)郡三ヶ日(みっかび)町の町史より「ある地方都市から見た戦争」と題して 戦中戦後のことを書いて行こうと思います。

三ヶ日町は豊橋と浜松の中間ほどの位置で浜名湖北岸の田舎町です。豊橋、浜松、岡崎、名古屋など空襲のときは、大型爆撃機B29やグラマンと呼ばれたF6Fや艦載機P51戦闘機などの通り道になっており機影は何度も見ました。

三ヶ日町は現在、浜松市北区三ヶ日町ですが、当時は引佐郡三ヶ日町と引佐郡東浜名村でした。ここでは開戦から終戦後の物資の乏しかった頃までを項目別・年代順に書いて行こうと思います。

資料は「三ケ日町史」(発行者 三ヶ日町、発行年月日 昭和54年3月15日)より拝借し抜粋して書いて行きます。

太平洋戦争の開始

 昭和16年12月8日(1941)朝6時過ぎ、「帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋に於いて米英軍と戦闘状態に入れり」という大本営発表の臨時ニュースが流れ町民を驚かせた。
 同日、米英に対して「宣戦の太詔(せんせんのたいしょう)」が発せられ、新聞・ラジオの報道する真珠湾攻撃、ハワイ・マレー沖海戦など、大勝利のニュースが次々に知らされ国民を狂喜させた。この戦争を「大東亜戦争」と命名したが、今日歴史的には、「太平洋戦争」と呼ぶようになった。
 三ケ日町では相次ぐ勝報に米英打倒の町民大会を、昭和16年12月17日三ヶ日町国民学校において盛大に挙行した。
 
昭和17年1月8日より宣戦布告の日を、「大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)」と定め、毎月国民挙げて必勝祈願の日となった。三ヶ日町は同年2月18日戦勝第1次祝賀旗行列を児童参加のもとに挙行し、同年3月12日 第2次祝賀式を行い、米英を打倒し勝ち抜く決意を示した。

 

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2019年5月16日 (木)

四谷の棚田

田には早苗が植えられています。新城市四谷の棚田も苗が植えられたと聞きましたので、その風景を見に行って来ました。早苗の植えられた風景は心が安らぎます。四谷の棚田は今も30軒の農家が420枚の田を耕作しているということです。

Dsc03113四谷の棚田

動画を作りましたので見て下さい。

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2019年5月13日 (月)

浜名湖ガーデンパーク しずおか花物語

浜松市村櫛の浜名湖ガーデンパークでは「しずおか花物語」が開かれています。期間は5月10日~5月19日までです。パンフレットには

浜名湖花博から15年目の春「令和」という新しい時代を迎えるときでもある今、「花の都しずおか」からあなたへ「花活のススメ」をご提案。花を愛で・・・緑に癒されながら、「心が深呼吸する旅」をお楽しみください。

とありました。以下写真でのみの紹介です。

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百花繚乱、花に心が癒されました。

 

 

 

 

 

 

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2019年5月11日 (土)

吉祥山

吉祥山をAコースより歩いて来ました。Bコースから登ることが多いので、Aコースは久しぶりです。

Kitijouakosu

登山口は駐車場、トイレ、休憩舎が完備されています。駐車場は満車、道路脇にもかなりの車が停められています。

Dsc03044 登山口

11時頃だったので下ってくる多くの人に逢いながら登って行きます。緩やかな登山道で子供たちも来ています。

以前は展望もありましたが、木が繁って来て頂上まで展望はありません。キンランが2ケ所で咲いていました。

Dsc03034 キンラン

1時間で頂上に着きました。3人が食事をしていました。霞んでいて遠くの山は見えません。

Dsc03043 吉祥山頂上

Dsc03037 奥三河3山 右から明神山、鳳来寺山、宇連山

今日は気温が高く汗ばみました。山は若葉に溢れ、山の斜面はもこもことした白い花が目立ちました。

 

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2019年5月 7日 (火)

霧山 早苗

引佐町の霧山に行って来ました。いなさ湖の近くにある山です。「かわな野外活動センター」から歩きます。

Kiriyama1

いろいろなコースが造られていますが、どのコースもあまり時間は変わりません。歩いたことのないコースを歩きました。

コースのはじめはセンターのいろいろな施設の中を行きます。表示がしてあり道も歩きやすくなっています。図の矢印のように歩き浦山展望台に着きました。観音山が近くに見えます。

Dsc03015 浦山展望台 左が観音山

霧山は423mですが、観音山は580mでここら辺りの山では高いので遠くからでもよく見える山です。霧山頂上には40分で着きました。大きな鉄塔があります。

Dsc03021 霧山頂上

Dsc03018 頂上

富士山も見えますが今日は見えません。反対側には富幕山(とんまくやま)や尉ケ峰(じょうがみね)が見えます。

Dsc03017 右 富幕山、左 尉ケ峰

帰りは別の道を降りました。以前この時期に来たときは春ゼミが鳴いていましたが今日は聞けませんでした。春ゼミの声を聞くといよいよ夏だなあと思いますが残念でした。

田んぼでは早苗が植えられはじめています。早苗が植えられた光景も初夏の清々しい感じがします。

Dsc07137 早苗の植えられた棚田(久留女木)

5年前の久留女木の棚田の動画を添付しておきました。

 

 

 

 

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2019年5月 6日 (月)

大原調整池 みかんの花

太原調整池から展望台を一周してして来ました。堰堤を歩きドウダンの小径からレンゲツツジの小径へ抜ける道です。

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堰堤にはツツジが咲き始めていました。

Dsc03008 堰堤のツツジ

ドウダンの小径を登り切った広場から池が見えます。

Dsc03009 広場からの池

展望台から周りの山々が見えますが、雲があり遠くの山は見えません。田んぼでは田植えが始まっています。

Dsc03010 展望台から田園風景

キンランがありました。見掛けたのは1本だけで、花びらが散っているようにも見えましたが貴重な1本です。

Dsc03012 キンラン

レンゲツツジの小径を下りて来ました。この道でレンゲツツジは見掛けません。堰堤横の駐車場に戻って来ました。1時間ほどの歩きでした。

 

今日は立夏です。ミカンの香りの良いときです。三ケ日の農免道路を走りみかんの花を見て来ました。周りはミカン畑ばかりです。

Dsc03003 ミカン畑

Dsc02989 ミカンの花

Dsc03005 ミカンの花

道を走っていると花の香りがたちこめています。この香りが大好きです。三ケ日のミカンは温州ミカンで実る頃にはお手伝いでミカン切りもしています。

この温州ミカンには特徴があります。受粉しなくても結実します。「おしべ」には花粉は無く、「めしべ」は受精能力があります。受粉しなくても単為結果し、種なし果になります。ほとんどの果樹では結実には受粉が必要ですが、「温州ミカン」や「清見オレンジ」は例外です。

5年前のみかんの花の動画を添付しておきます。

 

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2019年5月 4日 (土)

富士見岩 初夏の花

湖西市知波田のおちば親水公園より富士見岩に行って来ました。登山口には初夏の花も咲いています。

 

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Dsc02925 タニウツギ 田植えの時期に花が咲くので「田植えの花」としても知られる

Dsc02927 なんじゃもんじゃ (モクセイ科 ヒトツバタゴ属)

Dsc02914 御衣黄桜(ぎょいこうざくら 花が緑なのが特徴)

Karinn2 カリンの花と実

明日は端午の節句でこのおちば親水公園もまつりがあるようです。こいのぼりが揚がり、テントを張ったりして準備をしていました。

Dsc03001 おちば親水公園

Dsc02918 フジとこいのぼり

鉄塔沿いの道を行きます。山は白い花がもこもこと溢れています。どんぐりの仲間の木と思われますが、むせかえるほどその香りがたちこめています。

Dsc02992 白い花の山肌

Dsc02990 白い花

1時間10分で頂上です。ときに吹く風が心地よく感じました。霞が深く遠くの山は見えません。浜名湖も遠くは霞んでいます。

Dsc02995 富士見岩頂上

Dsc02997 浜名湖

風薫る5月の山,子供たちも来ていました。帰りも来た道を戻りました。

 

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2019年5月 3日 (金)

小鷹野浄水場タンク

豊橋小鷹野浄水場は古くからある浄水場で県営と市営が併設されています。赤岩尾根の西端の山の上にこれまで市営のタンク2つがありました。ここに県営のタンクが造られています。もう10年ほど前から工事をしています。

この工事をするのに山の上まで道が造られました。この道は工事専用なので入ることは出来ません。工事場所は家から5分くらいの所なのでこれまでも時々タンク工事を見に行っていました。工事を見るには山に入りますが、藪の道を5分ほど登って行きます。

小鷹野浄水場は豊川から取水した水をこの山の上の大きなタンクに貯水します。今あるタンクは市営のタンクで見学会に2回参加しています。タンクには展望台があり豊橋市街が見渡せます。

Dsc04105 市営の2つのタンク

今行われている工事は県営の豊橋南部浄水場に水を送るためタンクを設置していると思われます。送水管の設置も並行して行われていて、直径90cmの菅を埋める工事を道路各所でよく見かけました。

Dsc09718 送水管(2016.3.28)

前回見たとき(2018.11.18)はタンクが一つ出来上がり、その横を工事していました。

Dsc02975 前回見た時の工事現場(2018.11.18)

今度はここにもう一つタンクが、半分出来上がっていました。

Dsc02982 建造中のタンク

Dsc02988 タンク

3つ目を作ることは無いようです。土地がありません。

Dsc02985 タンク建設現場

これらすべての工事は来年の3月に終えるようです。この送水管は小鷹野浄水場と豊橋南部浄水場を結ぶ緊急送水管ということですが、こんな大きなタンクが2つも造られたのは、南部の開発に何かと使われてゆくものと思います。

完成後にはぜひ見学会を行ってもらいたいものです。

 

 

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2019年5月 2日 (木)

八十八夜 5月の童謡

花は遷ろぎ山には緑が溢れています。今日は八十八夜です。この頃の季節が大好きです。寒いのが苦手でまだコタツに入っています。八十八夜は立春から数えて八十八日目にあたる日です。三日後は端午の節句、四日後は立夏です。

八十八夜は二十四節気ではなく、節分・入梅・彼岸などもそうですが雑節です。どれも季節感があります。八十八夜はこの頃から田植えなど農作業の準備が始まるとされてきました。

八十八夜というとお茶です。八十八夜に摘まれたお茶を飲むと長生きできると言われています。新茶はその後に摘まれたお茶より栄養価が高いということです。お茶など嗜まないので分かりませんが、新茶は気分が改まります。季節が味わえます。

Dsc01970 満観峰(静岡)の茶畑

また、八十八夜で思うのが ″♬夏も近づく八十八夜″ という「茶摘み」の歌です。新緑の季節がしみじみと感じられます。他に「夏は来ぬ」「せいくらべ」「こいのぼり」もこの頃の季節が感じられ好きな歌です。

Dsc02929 おちば親水公園(湖西)のこいのぼり

「令和」も末永く平和であってほしいと思います。新入生・新社員のみなさん、そしてみんなみんな今を頑張ればよいことがたくさん待っていますよ。  

 

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