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2019年5月22日 (水)

地方都市の戦中戦後➅ 防空監視

「ある地方都市から見た戦争」と題して 戦中戦後のことを書いています。その6回目です。(三ケ日町史より抜粋)

防空監視

 昭和12年4月、「防空法・防空委員会法」が制定され、県防空計画に基づき、県下各地に監視哨(しょう)が網の目のように張り巡らされ、敵機来襲に備えた。
 三ヶ日町の稲荷山に監視哨が昭和18年に設置され、哨員には在郷軍人または青年学校や実業学校の生徒をあてた。昼夜を分かたず監視にあたり、県西部の浜松防空監視隊本部と連絡を取ったり、町村に警報を発した。
 各家庭では防火用水を備え、砂袋、バケツ、むしろ、火叩きなどを用意し、防空壕を掘るなど細かい注意と義務付けがされた。防空頭巾は常に身近に置き、夜間に備えて懐中電灯、負傷に備えて家庭常備薬など近くに置き、隣組を中心に防空監視や消火訓練を実施し空襲に備えた。これらの準備と訓練を総括する隣組長の責任は重かった。
 昭和19年7月サイパン島の全員玉砕により、米空軍の基地となりB29の来襲が始まり、同年12月には連日、空襲警報が発令される始末で、一層緊迫の度を加え、監視哨の責務はいよいよ重大となった。昭和20年に入ると、浜名湖北一帯に満洲より移駐した鋭敏部隊(戦車隊)が防空監視にあたった。

 当ブログは小学生の頃、家から10mほどの所に砂場があり、そこでよく遊びました。そこは河口でトンコ船が弁天島から砂を運んでくる場所でした。その場所を「カンシジョウ」と呼んでいました。カンシジョウの意味も分からず、その場所をなぜカンシジョウというのかも気にもしませんでした。そこには監視哨があったと思われます。親に聞いておけばよかったと悔やまれます。

 

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