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2019年5月23日 (木)

地方都市の戦中戦後⑦ 学童の生活

「ある地方都市から見た戦争」と題して 戦中戦後のことを書いています。その7回目です。(三ケ日町史より抜粋)

戦時中の学童の生活

 戦時下の学童生活は、先ず朝近所の神社や街の辻や広場に集落別に集合し、高等科の上級生の指示で2列に並んで集団登校した。校門脇には週番が立ち、防空頭巾や胸の名札服装を点検し、忘れ物をチェックした。校門に入って先ず、御真影(ごしんえい)の安置されている奉安殿(ほうあんでん)と二宮尊徳像に最敬礼をする。
 学童の服装は男子は、ズボンにシャツ、セーター、女子はモンペに綿入れのチャンチャンコ、セーターであった。履物はズック靴、下駄ばき、わらぞうりであった。ズック靴は2ケ月に1回、5・6足がクラスに配給され、くじ引きとした。
 かばんは必ず肩に掛け、防空頭巾と共に持参するよう命令されたものである。名札は必ず縫い付け、血液型も記入させられていた。
 授業は修身の時間には教育勅語(きょういくちよくご)、国史では歴代天皇の御名前の暗誦であった。
外国語は一斉追放され、それに代わって軍人援護の教育が徹底され、町出身の軍人に対しては慰問文や慰問袋を発送した。昭和16年12月の太平洋戦争勃発以降からは出征兵士の見送り、帰還兵や英霊の出迎えが頻繁に行われた。
 昭和19年9月には東京市立南六郷国民学校の児童100人が集団疎開してきて三ヶ日町大福寺に宿泊した。三ヶ日町の婦人会も月2回疎開児童のために勤労奉仕をした。
 昭和19年ころから学校においても、防空壕堀り作業が本格的に行われ、退避訓練が行われた。授業中、警戒警報が発令されると、かばんを持ち防空頭巾をかぶって、班別の所定の位置に集合。空襲警報になると近所の者は自宅へ駆け戻る。解除で再び登校あるいは解散となった。戦争が激しくなった昭和19年12月から終戦まで空襲警報で授業はほとんどできない状態となった。
 昭和19年12月から浜名湖上空にサイパン島からB29が現れ、連日空襲警報の発令される有様となった。昭和20年2月には太平洋近海に接近した米艦隊から、艦載機(かんさいき)P51が低空で遠州灘から侵入し、浜松航空隊を中心に三ケ日町上空にも飛来した。同年6月には東浜名村国民学校に午前9時頃P51が急襲し、校舎や奉安殿に無数の弾痕を残して去った。幸い児童は帰宅し事故は無かったが、付近にいた住民1名が銃撃を受け死亡した。 

 

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