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2019年5月31日 (金)

地方都市の戦中戦後⑮ 食糧難・・A 

「ある地方都市から見た戦争」と題して 戦中戦後のことを書いています。その15回目です。(三ケ日町史より抜粋)

食糧難・・A

 戦後の昭和20年から21年にかけて、食糧事情は昭和20年の稲作の凶作と、海外から700万人に及ぶ引き揚げが見込まれたことなどによって、きわめて緊迫した事態を迎え、従来の1人1日2合1勺の配給を維持することが難しい状況であった。しかも、その2合1勺の大部分はサツマイモであった。とにかく1食、茶碗1杯分しかなかった。主要代食の、ジャガイモ、サツマイモ、大豆、豆かす、などが配給されると、その分だけ米の配給が減らされる仕組みであった。
 野菜の配給は、1日1人当たり75g、魚は4日に1度、鰯1尾の程度であった。カロリーで計算すると合計1200カロリーであったから、戦前の2160カロリーの半分程度にすぎなかった。
 一般家庭の畑や菜園から作物が盗まれたり、野荒らしが横行し、果ては殺人にもなるという社会不安がつのり、食用危機をどのように突破するかが、最も重大でかつ緊急な課題となった。農家には供出の完納から、さらに追い打ち供出を呼びかけ「米1升・ジャガイモ1個でも」と窮状を訴えた。
 人々は食料を求めて農村へ農村へと殺到して来た。ところが食料品は最も大切な貴重品であるため、法外な金か、物々交換でしか手に入れることが出来ず、タンスに残っていた晴れ着は、僅かな食料に変えられ、農村に流れた。このようにして飢えを防ぐため、いわゆる「タケノコ生活」が続いたのである。当三ヶ日町の農家へも二俣線を利用して、名古屋・豊橋・浜松方面からの買い出し部隊が殺到した。このため闇値が高騰し、地元の人々には、かえって手に入らないという状態が起こってきた。
 
砂糖も貴重品で、畑にサトウキビを作り、それを絞って砂糖にした。三ヶ日町にも下尾奈(しもおな)などに4・5ケ所絞る小工場が出来た。

 

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