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2019年6月

2019年6月30日 (日)

夏越の祓、半夏生

令和になって2か月、今年も半年が経ちました。神社では年2回除災行事として6月30日に「夏越の祓」(なごしのはらえ)、12月31日に「年越の祓」(としこしのはらえ)が行われるところがあります。

「夏越の祓」を行っている神社は豊橋近辺でも幾つかあります。行事として「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」があります。当ブログも一昨日2つの神社で茅の輪くぐりをして来ました。

Dsc03368 豊川市一宮町 砥鹿神社 茅の輪

Dsc03376 豊橋市賀茂町 賀茂神社 茅の輪

茅の輪くぐりは半年間に溜まった穢れを落とし、残りの半年が無事に過ごせることを願うというものです。回り方は正面から最初に左回り、次に右回りと 8 字を描いて計3回くぐります。 

Dsc03363 茅の輪のくぐり方

砥鹿神社では「年越の祓」も行われています。「年越の祓」を行っている神社はたいへん少なく、冬は茅の輪はありません。


また明後日 7月2日は半夏生(はんげしょう)です。 半夏生は夏至の日から数えて11日目を言います。
季節には24節季とは別に72候があり、その中の1つです。この日にタコを食べる習慣があります。それは田植えの終わった今の時季、稲の根がタコの足のようにしっかりと張って豊作になりますように、という願いが込められているからです。

植物にもこの頃に咲くハンゲショウがあります。上の方の葉、数枚の表側が白くなります。花よりも葉に特徴があります。この時季を過ぎるとまた緑の葉に戻って行きます。昨年までは葦毛湿原で見られましたが、今年は見られませんでした。下の写真は豊橋運動公園のハンゲショウです。

Dsc03340 ハンゲショウの花と葉

マタタビもこのようになるので間違えそうですが、ハンゲショウは草でマタタビは木です。我が家でもハンゲショウを植えたことがありますが、枯れてしまいました。それは湿気が足りなかったからのようです。

葦毛湿原ではこの時季カキランがよく咲いています。

Dsc03334 カキラン

雨の日が続いています。我が家のブドウも房が大きくなってきました。熟する頃には鳥に食べられてしまうのでネットを張りました。

Dsc03379_20190629222801我が家のブドウ棚 

 

 

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2019年6月20日 (木)

吉祥山、夏至

ササユリを見に吉祥山に行って来ました。一番近い林道登山口から行きました。

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ゲートまで車で入り、林道を登って行きます。林道ばかりを歩いて反射板のある頂上直下のところへ出ました。この反射板の柵の中にたくさんのササユリが咲きます。

今年も6月6日のネットには反射板の周りにササユリが咲き乱れているというのがありました。まだ咲いていると思いましたが、もうほとんどありません。2・3本が僅かに咲くばかりでした。場所による違いはあれ、ササユリももう終わりのようです。

Dsc03316 ササユリ

Dsc03315 ササユリ

反射板から少し歩くと頂上です。3人がいました。曇っていて山は見えません。

Dsc03320吉祥山頂上

Dsc03322 頂上

山頂を下ったところに吉祥天女の祠があります。この辺りは大きな木や岩があります。

Dsc03324吉祥天女の祠

1時間10分ほどの歩きでした。暑くなり汗びっしょりとなりました。

 

日が長くなったと思っていたらあさっては夏至です。6月21日の年が多いですが今年は22日です。豊橋の夏至の日の日の出は4:37、日の入りは19:07です。日中の長さは一番長いですが、日の入りはまだ1分ほど遅くなって行きます。

 

 

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2019年6月16日 (日)

雲谷山 ササユリ

葦毛湿原からテレビアンテナのある雲谷山(うのやさん)に行って来ました。
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駐車場は車がいっぱいです。今日は日曜日で豊橋以外のナンバーの車もたくさん見受けられます。葦毛湿原はノハナショウブが咲いていましたが、もう終わりに近いと思われます。
Dsc03313 ノハナショウブ

葦毛湿原を突き切って行く道を行きました。沢はこのところの雨で水が多いようです。

尾根道に出るとササユリが咲いていました。しかし数は多くありません。
Dsc03305 ササユリ
1時間で頂上に着きました。テレビアンテナがあり不粋な頂上です。

Dsc03309 雲谷山頂上

Dsc03307 雲谷山から太平洋

更に尾根道を行くと座談山、神石山となり、そこまで行く人が多いようです。今日はササユリの咲き具合を見に来たので、ここで引き返しました。豊橋自然歩道(湖西連峰)のササユリは減っているようです。

帰りは別の道を下り一周しました。昼頃でしたが入れ代わり立ち代わり人が来ています。

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2019年6月14日 (金)

雨生山 ササユリ

ササユリを見に 雨生山(うぶさん 313m)に行って来ました。登り口は新城市中宇利の桜の園西の道を行きます。

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桜の園沿いの道にはササユリが間断なく見られます。

Dsc03280 ササユリ

Dsc03284 ササユリ

やがて林道に出ます。林道沿いにもササユリが多く咲いています。ノハナショウブやウツボグサも見られます。

Dsc03283 ノハナショウブ

Dsc03282 ウツボグサ

林道を少し歩いて登山道へ入ります。ササユリがあちらこちらで咲いています。シライトソウもまだ1本だけありました。

Dsc03286 シライトソウ

やがて展望の良いピークに出ました。山や田園風景が一望できます。

Dsc03288 左から雨生山、吉祥山、本宮山

Dsc03289新城市宇利の田園風景

雨生山に向かいます。ササユリはこの間も多く咲いています。登り口から1時間15分で雨生山に着きました。

Dsc03290 頂上表示板

Dsc03291 浜名湖 木が繁り見える範囲が狭まりました

ここで引き返しましたが、登り口から頂上までササユリが絶え間なく咲いており楽しめます。まだ蕾も多かったので、もうしばらくはよいようです。

 

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2019年6月13日 (木)

釣れました

キビレの大物が釣れました。

Dsc03275 キビレ

今年2回目の釣りで狙っていた大物が釣れました。いつもは3間(5.4m)の延べ竿で釣っているのですが、この時季は大物が来るので豆リール付きの延べ竿で釣っていました。

場所は湖西市入出で毎年釣っている場所です。釣り始めて30分後、まだ太陽が沈まない18:30に釣れました。胴長を履いていますが、手応えでは、リールが付いていなければ竿は折れていたでしょう。

40cmのキビレです。黒鯛が一番の狙いですが、釣れただけで上等です。ハリスは1.5号、針は5号のチヌ針、重りは嚙み潰しの中で、浮き釣りです。エサは太めの青虫でした。釣りは坊主(釣果零)のことが多いですが、釣れることが分かりこれからも楽しみとなりました。

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2019年6月12日 (水)

竜ケ石山 アジサイ

引佐町の竜ケ石山(りゅうがしやま 359m)を歩いて来ました。近くに鍾乳洞の竜ケ岩洞(りゅがしどう)があります。

駐車場から登山口までの林道は、アジサイが植えられており、またササユリも見られるかと思い林道を歩きました。今はアジサイの季節でさぞきれいだろうと思いましたが、そうではありませんでした。

枯れていたり、花が咲いていなかったりで、ところどころにしか見られません。もう20年以上も前に植えられたので、このようになるのでしょうか。

Dsc03254 林道のアジサイ

Dsc03255 花もまばらのアジサイ

35分で登山口に着きました。

Dsc03256 登山口

竜ケ石山は石灰岩の山で、登山道には年月を経た石のオブジェが所々出てきます。

Dsc03269 浸食された石灰岩

頂上近くには石の祠があり3体が祀られていました。

Dsc03257 白山大神(家の神)、秋葉大神(火の神)、大峰大神(山の神)

登山口から25分で頂上に着きました。南側の展望が開けています。

Dsc03259 頂上からの眺め

Dsc03267 頂上

Dsc03260 頂上標識

浜松市街、太平洋、浜名湖など見渡せます。富士山も見えるようですが今日は駄目です。

Dsc03262 浜松市街、太平洋

帰りも来た道を戻りました。ササユリは全く見られませんでした。

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2019年6月 8日 (土)

神石山 ササユリ

ササユリを見に神石山に行って来ました。手洗の登山口から登ります。

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松林の登山道を登って行きます。曇っていて雨の降りそうな感じもします、ざわざわと音が聞こえるのでいよいよ雨かと思いましたが、これは松風の音でした。

Dsc03238 松林

この松林にササユリが見られるのですが、中ほどでやっと一本咲いていました。数年前はたくさん咲いてましたが、年々少なくなって行きます。時季は丁度良い頃だと思います。

Dsc03239 ササユリ

1時間ほどで頂上です。たくさんの人がいました。神石山は登り口が多くあり、縦走路でもあるのでいつも人がいます。冬には見えていた富士山はこの時季には見えません。

Dsc03241 頂上

Dsc03240 浜名湖

Dsc03243 頂上の賑わい

帰りも同じ道を戻り、今度はササユリを見逃さないように下って行きましたが、蕾や萎れているのも含めて5本ありました。花も小振りで、少なくなってしまったのが残念です。

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2019年6月 7日 (金)

五葉城址、ササユリ、ノハナショウブ

6月5日、五葉城址にササユリを見に行って来ました。林道ゲートから歩きます。

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Dsc03219_1 林道ゲート

林道の上の方になるとササユリが見られはじめられましたが、所々に見られる程度で数は多くありません。

Dsc03225 ササユリ

林道沿いにはウツボグサが咲いています。

Dsc03230 ウツボグサ

50分で城址に着きました。曇っており遠くの山は見えません。

Dsc03227 五葉城址

城址にもササユリは咲いていましたが多くありません。もう暑くなり汗が噴き出ています。暫し山々を眺めながら木陰のベンチで涼をとりました。

Dsc03228 本宮山と吉祥山

帰りも林道を下りました。

 

6月3日、新城の比丘尼城址でササユリを見て来ました。ここはたくさん咲いていました。

Dsc03218 比丘尼城址入口

Dsc03211 ササユリ

Dsc03216 ササユリ

シライトソウも見られました。

Dsc03214 シライトソウ

 

6月6日、葦毛湿原で花を見て来ました。

Dsc03232 葦毛湿原

Dsc03231 ノハナショウブ

Dsc03235 バイケイソウ

花で季節の移ろいを感じています。

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2019年6月 6日 (木)

「戦中戦後の頃の話」百話

戦中戦後の頃の話」が百話となりました。

この話を書き始めたのは、里山のブログを書いていると同じ山の繰り返しとなり、これでは変わり映えしないので、何か付け足して書いて行こうと思いました。

山に関係した子供の頃のことを書いていましたが、それは戦後の頃と重なり、それでは戦中戦後の頃を書いて行こうという思いになりました。また戦争を少しでも知っているものとして、それを伝えてゆかなければいけないという思いもありました。

「戦中戦後の頃の話」は1部〜3部になりました。1部は戦中戦後の体験、2部も体験ですが、戦後大分経ってからのことも書きました。3部はその時住んでいた三ヶ日町の戦中戦後について町史より書きました。 

5月1日より令和の時代となりました。昭和から平成を経て時代も変わって来ました。戦後生まれの人口も84%となり、太平洋戦争を経験した人も少なくなってきました。太平洋戦争は過去の出来事として忘れられつつあります。

あの戦争の時代に生きていれば、誰も戦争に巻き込まれて行きました。戦争に反対しても、戦争を拒否しても、そこに「戦争が立っていた」のです。そのような時代の中にあって犠牲にならざるを得なかったのでした。非業の死を強いられた戦没者にはひたすら追悼あるのみです。二度とそんな時代には戻りたくないものです。

 

 

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2019年6月 5日 (水)

本「戦争が立っていた」

本の紹介です。暮しの手帖社から5月末に「戦争が立っていた」という本が出版されました。副題は「戦中・戦後の暮しの記録 拾遺集 戦中編」となっています。これは昨年発行された戦中・戦後の暮しの記録」の続編になります。

Dsc03208_2 今回発行された「戦争が立っていた」 

今回発行された「戦争が立っていた」には、 前回発行の「戦中・戦後の暮しの記録」で掲載されなかった原稿の中から44編、および1968年に発行された「戦争中の暮しの記録」で収録されなかった原稿から10編が収録されています。手記・聞き書き・手紙・絵・写真などの記録です。

今回の副題が「・・・戦中編」となっているので、続いて第3集「なんにもなかった 戦中・戦後の暮しの記録 拾遺集 戦後編」が7月に出版されるそうです。

書名が「戦争が立っていた」となっていますが、これは 俳人 渡邊白泉(1913~1969)の句「戦争が廊下の奥に立ってゐた」から取ったと思われます。戦争はいつの間にか日常の中に、知らず知らずのうちに入り込んできて佇んでいました。

戦中編なのでこの中に収められている手記は、壮絶な体験をした人たちの記録です。 収録されている人たちの年代は80歳代が多く、90歳代の人も何人かいました。70歳代は戦争体験した人は少なく聞き書きの人もありました。

当ブログ現在78歳ですが、終戦のときは5歳になったばかりで、4歳頃の戦争の記憶はあります。住んでいたのは田舎であったので、空襲はうけておらず、悲惨な体験はしておりません。しかし、空襲警報が出て防空壕に走ったということは何回もありました。この本で戦争のむごさがよく分かりました。

あの戦争から74年が経ちました。戦争を体験した人もやがていなくなってしまいます。令和の時代となり、昭和の戦争の時代も遠ざかっています。戦争の記憶を風化させぬよう、若い世代に伝えて行く貴重な本です 

 

 

 

 

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2019年6月 4日 (火)

地方都市の戦中戦後⑲最終回 物価の上昇

「ある地方都市から見た戦争」と題して 戦中戦後のことを書いています。その19回目、最終回となります。(三ケ日町史より抜粋)

物価の上昇と家計の状況

 終戦後、諸産業の活動は徹底的に崩壊し、異常な通貨の膨張は生活物資の欠乏と驚くべき物価の高騰を招き、人々の生活は破局的なインフレの危機にさらされることになった。昭和14年を100として公定料金の推移をみると、昭和20年が343、昭和21年が648となっている。米価の場合は、昭和22年白米1kgが9円96銭であったものが、闇値では116円で売られ10倍以上の価格で売買されていた。大麦・小麦・サツマイモ・ジャガイモもほぼ同じ傾向であった。
 インフレの波はさらに国民の経済生活を揺り動かし、直接戦災を受けなかった町民もインフレの渦中に巻き込まれていった。三ヶ日町内における1世帯1ケ月の消費支出を見ると、昭和21年の消費支出中、食糧費の占める割合は70%となり、22年65%、23年60%と徐々に好転しているものの、収入のほとんどを食生活に回し、最低生活を送っていたことになる。
 その後、いくつかの経済政策が施行になり、生産も徐々に回復し、輸入物資の増加も加わって、物価の上昇は鈍化した。そして昭和23年7月に封鎖預金は解除され、同年12月、政府は経済安定9原則を発表し、翌24年からドッチ・ラインに沿う強力な措置をとったため、戦後長らく続いたインフレの危機は次第に緩和されていった。

これで「ある地方都市から見た戦争」と題しての話を終わります。当ブログが生まれ育った三ヶ日町について、戦争の始まった昭和16年から20年の敗戦を経て、24年までのやっと経済の安定してきたころまでを書きました。ご覧いただきありがとうございました。 


 

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2019年6月 3日 (月)

地方都市の戦中戦後⑱ 新円の切りかえ

「ある地方都市から見た戦争」と題して 戦中戦後のことを書いています。その18回目です。(三ケ日町史より抜粋)

新円の切りかえ

 終戦処理のため政府の支払いは急激に増加し、日銀券の発行高は終戦時302億円であったが、12月には554億円にはねあがり、インフレーションが進行し始めた。
 生活難にあえぐ人々は、僅かばかりの預金引き出しのために、金融機関に殺到し金融機関は支払い停止寸前まで追い込まれた。このため昭和21年2月「金融緊急措置令」が公布された。
 これは今までの預金と通貨を封鎖し、新しい紙幣(新円)に切り替えたもので、1人百円だけ新紙幣と交換し、残りの紙幣は(旧紙幣)は強制的に預金させ封鎖した。引き出しは世帯主が月300円、世帯員は100円以内に制限し、賃金も1人500円までは新円、超過分は封鎖預金とさせられた。
 これで一時的に銀行の経営状態などは改善されたが、生産活動は依然低調で物資の不足は解消せず、政府は相変わらず巨額の日銀券を発行したので、物価は次から次へと上昇するばかりであった。

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2019年6月 2日 (日)

地方都市の戦中戦後⑰ 諸物資の不足

「ある地方都市から見た戦争」と題して 戦中戦後のことを書いています。その17回目です。(三ケ日町史より抜粋)

諸物資の不足

 戦後は食料と共にあらゆる生活物資が不足した。中でも衣料はもっとも不足していた。衣料品は戦争中と同じく、点数切符制で年間の点数が決められ制限されていたので、それ以外で衣服を求めることは出来なかった。
 男子は戦争が終っても戦時服のまゝであったが、占領軍が主要都市へ進駐してきてからは、三ヶ日町民の服装もその影響を受け急に変わった。ジャンバー姿が増えていった。
 女子はかすりのモンペに防空頭巾スタイルが戦後もしばらく続き、やがて昭和23年からはロングスカートになっていった。いずれも古着を利用して作り直したものであった。
 極度の窮乏生活に誕生したのが都市におけ
る「ヤミ市」であった。三ヶ日町内では「ヤミ市」とまではいかなかったが、ヤミで生活用品の売買は行われていた。浜松、豊橋、名古屋へ出かけ、配給統制外の用品を買い求める町民もかなりいた。
 この頃の生活を現わす言葉に「モク拾い」(煙草の吸殻を拾うこと)「カストリ密造酒」(品質の悪い酒)「タケノコ生活」(衣類など売る生活)などあり、世相を物語っていた。
 「リンゴの歌」が流れるようになったのは昭和21年だったが、リンゴなど憧れの果物であった。この明るい歌は生活に疲れ果てた人々の心に希望を与え、殺伐とした世相に明るい灯をともしていった。しかし、食糧事情や生活諸物資はますます悪化するばかりであった。

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2019年6月 1日 (土)

地方都市の戦中戦後⑯ 食糧難・・B

「ある地方都市から見た戦争」と題して 戦中戦後のことを書いています。その16回目です。(三ケ日町史より抜粋)

食糧難・・B

 昭和21年の稲作は平年作に近づき、配給は国民の強い要望により、同年11月から1人1日、2合5勺と改められたが、これでもとても足りず、3合配給の強い要求運動が続いた。同年の収穫は1日分に直すと1人当たり2合8勺強の収穫となり、これにサツマイモ、ジャガイモを加えると、3合配給が可能というものであった。しかし国内の食糧を先食いしたこと、引き揚げ者の増大などにより、昭和22年も遅配が全国的に広がり、戦後最悪の食糧難となって3合配給は実現不可能であった。
  翌年度は、昭和22年の稲作は平年作になったこと、輸入食料の放出によって、昭和23年11月からは、2合7勺となり3合配給にやっと近づいたのであった。
 このような中で、三ヶ日町民の生活も緊迫度を加えたのは事実で、農家においてすら、食べて生活するのに精いっぱいであった。
 当時の新聞にはこんな記事もあった。「食糧危機に備えて、家庭で簡単にできる未利用資源の活用」と題して、「使用後捨てていた茶殻は乾燥した後、刻んで佃煮にするか、ご飯の中に入れると風味がある茶飯となり、そのまま衣をかけててんぷらを作ればたんぱく質も多い。ジャガイモやニンジンの葉、野菜などいずれも細かく刻んでごはんに混ぜれば、カロリーも相当あって食べ延ばしに有効である。」
 とにかく食べれるものは何でも食べて生活したのである。

 
この「ある地方都市から見た戦争」のブログは19回までです。あと3回です。

 

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