戦中戦後

2019年12月 5日 (木)

わが家の戦争遺品②

我が家には戦争遺品があります。

・大日本国防婦人会たすき

Dsc04001大日本国防婦人会たすき

国防婦人会とは、1932年から1942年まで存在した日本の婦人団体です。割烹着と会の名を墨書した白タスキを会服として活動しました。出征兵士の見送りや慰問袋の作成など、銃後活動を行ないました。(ウィキペディアより)

「大日本国防婦人会」の画像検索結果 国防婦人会 ネットで拝借しました

 

・衣料切符

衣料を配給するために政府が発行した点数制の切符です。 昭和17年(1942)から昭和25年(1950)まで続きました。

Haikyuutechou衣料切符

 

・薬莢(やっきょう)

薬莢は銃砲の発射薬を詰める容器であり、これを用いると弾頭や火薬を銃砲へ迅速に装填することができます。

Yakukyou薬莢

これは米軍のB29機銃薬莢です。

 

・国語読本

「尋常小学 国語読本 巻1 文部省」 大正6年11月発行です。

国語読本とは、戦前の日本において、文部省が編集した尋常小学校、高等小学校および国民学校の国語 の国定教科書です。ハナハト読本とも呼ばれています。当時の全国の小学生が同じ教科書を使いました。(ウィキペディアより)

Senngokyoukasho国語読本

これは復刻本です。昭和21までは国民学校でしたが昭和22年から小学校となりました。当ブログの小学校入学は昭和22年でしたのでこの国語読本は使っていません。

Senngokyoukasyo11ページ目

Senngokyoukasho22ページ目

 

12月8日は太平洋戦争開戦日です。日米開戦から78年目の日です。ホームページに「戦中戦後の出来事」を設けています。こちらも見て下さい。

 

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2019年12月 3日 (火)

わが家の戦争遺品①

わが家には戦争遺品があります。

・奉公袋

父親は在郷軍人でした。在郷軍人とは平時は社会で生業についているが、戦争・事変が起こると必要に応じて召集され、国防に任ずべき後備役を言います。その奉公袋です。

Houkofukuro在郷軍人奉公袋

奉公袋裏側には収容品が書いてあります。

Houkousetumei奉公袋裏側の収容品内容

収容品内容を書き出してみます。

1.軍隊手帖、勲章、記章

2.適任証書、軍隊に於ける特業教育に関する証書

3.召集及び点呼令状

4.その他貯金通帳など応召準備及び応召のため必要と認むるもの

次にその写真です。

軍隊手帖

Gunntaitechou軍隊手帖

記章・勲章 

Kishou記章

Gunntaikishou勲章

出席簿

表紙は「出席簿  帝国在郷軍人会○○○班 官等級氏名 〇〇〇〇」となっています。   

Gunntaishussekibo帝国在郷軍人会の出席簿

 

・戦陣訓

 「戦陣訓」の小さな冊子がありました。戦陣訓は軍人への浸透のため、陸軍省は「軍隊手帖」と同じサイズの「戦陣訓」を製作し、将校以下全員に配布しました。

戦陣訓とは 昭和16年(1941)1月8日、東条英機陸相が「軍人勅諭」の実践を目的に公布した具体的な行動規範です。 特に「生きて虜囚の辱を受けず」の部分が明確に降伏を否定しているため、これによって多くの兵士が無駄死にしたとされます。(ウィキペディアより)

Sennjinnkunn戦陣訓

「戦陣訓」は「序」と「本訓」「結」から成っており、「本訓」はさらに「其の一」から「其の三」までに分かれています。表紙は「昭和16年5月9日陸軍省検閲済 戦陣訓」となっています。  

 

 

 

 

 

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2019年10月24日 (木)

ミッドウェー海戦 沈没空母発見

昨日10月22日の新聞に「ミッドウェー海戦で沈没 空母2隻目発見か」という記事がありました。アメリカの探査チームがミッドウェー海戦で沈んだ旧日本軍の空母「加賀」を10月16日に発見しましたが、今度は2隻目の空母「赤城」を発見したというニュースでした。

ミッドウェー海戦で旧日本軍「加賀」「赤城」 「蒼龍」「飛竜」の空母4隻を失う大敗を喫し、太平洋戦争の転換点となりました。

ミッドウェー海戦 とは、真珠湾攻撃から6ケ月後の昭和17年6月に日米の海軍が繰り広げた大規模な戦いのことです。この戦いで旧日本海軍は空母4隻、搭載の航空機約290機を失うという大損害を受けました。以後の作戦の主導権はアメリカ軍に奪われ転換点になった戦いです。

ミッドウェー島 は北太平洋ハワイ諸島北西の環礁で、アメリカ軍は旧日本海軍の動きを暗号解読で把握し、旧日本軍を迎え撃つ形となりました。沈没した4隻の空母は主力空母で、残る主力空母は2隻のみとなりました。(ウィキペディアより)

「ミッドウェー海戦空母」の画像検索結果300×219

空母「加賀」 ネットで拝借しました

「ミッドウェー海戦空母」の画像検索結果

空母「赤城」 ネットで拝借しました

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2019年9月21日 (土)

女河浦震洋特攻艇壕

湖西市の女河浦(めがうら)海水浴場の南側には太平洋戦争のとき、本土決戦に備えて女河浦震洋(しんよう)特攻艇基地がありました。

このような特攻艇基地は豊橋でも朝倉川河口、大崎、老津などにあったことは以前のブログにも書きました。特攻艇基地は静岡県にも新居、湖西など各地にありました。

湖西市の女河浦震洋特攻艇基地については袋井市歴史文化館が発行しているパンフにその説明がありました。

「昭和20年(1945)本土決戦部隊の1つとして、遠州浜の海防にあたった浜名警備隊は、鷲津北方の女河浦に特攻兵器震洋の基地を作り始めました。震洋とは1人ないし2人乗りの小型モーターボートで、船首に炸裂火薬を搭載し、敵艦に体当たりする特攻兵器で、粗悪なベニヤ板製のものもあったようです。
現在の女河浦海水浴場の南側の山に塹壕(ざんごう 銃撃から身を守るための溝や洞穴)、海岸に震洋の掩体壕(えんたいごう 敵の攻撃から守るかまぼこ型施設)を建設する予定でしたが、塹壕を5本掘ったところで終戦となり未完成に終わりました。」

海水浴シーズンも終わったので、その塹壕を見に行きました。しかし位置がはっきりせず、説明板があるわけでもありません。74年も経った今、海岸は波で削られ、山は木が繁り放題となっています。5本掘られたという塹壕ですが、見当たりませんでした。

Dsc03720女河浦海水浴場の奥

「震洋」は小型のモーターボートで、ベニヤ板で造られたものもあり、構造が簡単なので大量に生産されました。爆弾を船首に積み込み、搭乗員が乗り込んで、目標艦艇に体当たり攻撃する1人乗りの舟でした。2人用もありましたがこれは指揮艦艇として使用されました。日本本土決戦時には、入り江の奥の洞窟などから出撃することが計画され、日本各地の沿岸に基地が造られました。(ウィキペディアより)

女河浦にまで基地があるのはそのようなことでした。

震洋1型艇 

女河浦の塹壕は埋もれてしまったものと思われますが、上記パンフでは静岡県沼津市の江浦(えうら)震洋特攻艇基地跡には塹壕が残っているとありました。残っている塹壕は貴重です。末永く保存してほしいと思います。

 

折角なので釣りをしてみました。全くダメです。10分で止めました。3連休の初日ですが、この時季になると海水浴客もいません。

Dsc03724女河浦海岸

 

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2019年8月20日 (火)

テレビ戦争番組

今年も終戦日前後のテレビは、戦争に関する番組が幾つかありました。下記は当ブログが視聴したNHK番組です。

 

8月 6日 NHK スペシャル 「“ヒロシマの声”がきこえますか〜生まれ変わった原爆資料館~」

8月10日 NHK 「巨大戦艦 大和〜乗組員が見つめた生と死〜」

8月10日 NHK BS1 スペシャル 「戦艦武蔵の最期〜映像解析・知られざる“真実”〜」

8月11日 NHK スペシャル 「激闘ガダルカナル 悲劇の指揮官」

8月11日 NHK BS1スペシャル ▽幻の巨大空母“信濃”~乗組員が語る 大和型 “不沈艦”の悲劇〜

8月15日 NHK ETV特集 「忘れられた“ひろしま”~8万8千人が演じた“あの日”〜」

8月17日 NHK 「ひろしま」<スタンダードサイズ>

8月17日 NHK BS1 スペシャル  「戦争花嫁たちのアメリカ」 

8月18日 NHK BS1 スペシャル「マンゴーの樹の下で〜こうして私は地獄を生きた〜」

 

今年は巨大船 「大和」 「武蔵」 「信濃」 を同時に見ることが出来ました。世界最大の軍艦や空母が海の藻屑と消えてゆくのはむなしい限りでした。

「マンゴーの木の下で」はフィリピン マニラからの民間人約3000名の逃避行の映像でした。ジャングルの中をミミズやアブラムシまで食べ、子どもたちは次々と死んでゆき、悲惨極まりない逃避行でした。

ガダルカナル」は陸海軍の齟齬で補給が途絶え、兵士たちは飢えや病気で死んで行きました。

戦後74年が経ち、戦場での体験者は90歳以上となってきており、戦争体験を語れる人もやがていなくなってしまいます。

たくさんの資料が焼却された中、個人で保存していた資料や極秘に保存された資料が公開されました。また外国で保存されていた資料の公開も多くありました。

ほとんどの番組は録画をしておき後で見ましたが、これらの番組の中には再放送されるものもあります。当ブログが見ていない戦争番組は他にもあります。

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2019年8月 4日 (日)

本「なんにもなかった」、映画「この世界の片隅に」、セミ脱皮

本の紹介です。暮しの手帖社から7月に「なんにもなかった」という本が出版されました。副題は「戦中・戦後の暮しの記録 拾遺集 戦後編」となっています。これは昨年発行された戦中・戦後の暮しの記録」、5月に発行された「戦争が立っていた」の完結編になります。

Dsc03465 「なんにもなかった」の本 

今回発行された「なんにもなかった」には、 第1集・第2集に掲載されなかった原稿の中から46編が収録されています。手記・聞き書き・手紙・絵・写真などの記録です。

第2集は「・・・戦中編」であり、第3集は「・・・戦後編」です。第3集の手記の人たちの年代は、当ブログとちょうど同じです。当ブログは空襲はうけていないので壮絶な体験はしておりませんが、食べる物が無いというのは全く一緒でした。

あの戦争から74年が経ちました。戦争を体験した人もやがていなくなってしまいます。平成を経て令和の時代となり、昭和の戦争の時代も遠ざかっています。戦争の記憶を風化させぬよう、若い世代に伝えて行く貴重な本です 

 

別のことを書きます。アニメ映画「この世界の片隅に」を昨日テレビで見ました。これは映画館で一度観ております。年代が当ブログと一致しますので子供のころを思い出しながら観ました。2回目ですが大変感動いたしました。以前にもブログに書きましたが、もう一度内容と感想を書きます。

戦中戦後の中、懸命に生き抜いた若い女性「すず」を中心にした物語です。「すず」は広島に生まれ、18歳で呉に嫁ぎます。働き者だが、おっとりした性格から時折小事件を巻き起こします。

次第に物資が乏しくなる戦時下の生活に先行きの不安を感じつつも、夫や嫁ぎ先の人々を愛し、知恵と明るさで懸命に乗り切っていきます。

戦時下に空襲で右手を失いました。その時自分と一緒に居た義姉の子は死んでしまいました。その負い目がいつもありました。

とにかくこのアニメに出てくる人たちは根はよい人たちばかりで、戦時下の中でもほのぼのとしたものを感じます。戦後の厳しい中でも明るさを失わない「すず」。このように生きたいと思います。

この映画は戦争や環境を批判するのでなく、それは横に置き、現実をひたすら生きた「すず」に感銘するばかりです。

この映画は今でもときどき新聞やネットに取り上げられています。機会あれば多くの人に見られることを願っています。

 

もう一つ別のことを書きます。セミの幼虫を見つけました。抜け殻はよく見ますが幼虫は珍しいことです。すぐに羽化しそうなので観察しました。

Dsc03461 幼虫

羽化の途中で絶対触ったりしてはいけません。羽根がいびつになり、飛ぶことが出来なくなります。

Dsc03463 脱皮

Dsc03466 クマゼミです

Dsc03468 クマゼミ

Dsc03470 クマゼミ

ここからあまり変化しません。今は夜の10時です。朝までそのままにしておきます。

ほんの数時間の間に全く違った形の生物に変化しました。自然の神秘さ神々しさを感じました。自然には畏敬の念を抱いています。

追記 翌朝見るともう飛べるほどになっていました。外へ放ってやると飛んで行ったので安心しました。

Dsc03473 これは翌朝6時です。

 

 

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2019年8月 1日 (木)

夏本番、8月鎮魂の月

7月はほとんどの日が雨で気温の低い日が続きました。月末には台風も来ましたが29日に梅雨明けとなりました。その後は暑い日が続いています。

30日に浜名湖ガーデンパークのヒマワリを見に行って来ました。花ひろばに5万本のヒマワリが植えられています。しかし全く咲いていませんでした。今年は遅いようです。

Dsc03033 まだ咲いていないヒマワリ

例年こんなふうに咲く

気温は33度の大変暑い日だったので、水遊び広場は子供たちの歓声で溢れていました。

Dsc03031 水遊び広場

少し歩いても汗が出ます。いつもは百華園まで歩きますが早々引き上げました。

 

さて今日から8月、8月は鎮魂の月です。8月6日は広島原爆の日・犠牲者は約14万人、8月9日は長崎原爆の日・犠牲者は約7万人、8月7日は当ブログの隣街、豊川海軍工廠空襲の日・約2500名が犠牲となりました。

旧満洲では8月9日にソ連が侵攻、約20万人が犠牲となり、旧樺太では戦争の終わった後にソ連が侵攻、約6000人が犠牲となりました。昭和20年8月15日に戦争はやっと終わりましたが、昭和20年8月は悲惨なことが多くありました。

軍民合わせて戦争での犠牲者は300万人でした。戦没者にはひたすら追悼あるのみです。

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2019年7月20日 (土)

令和元年戦争資料展

毎年豊橋市中央図書館で戦争資料展が開かれています。今年は7月6日~9月1日の期間です。

この資料展は平成4年から開かれていますが、当ブログは平成28年から見ており今年で4回目です。

テーマは『令和元年度 第2回 「平和を求めて とよはし」展 「語り」・「継ぐ」戦争体験 〜昭和・平成から令和へ〜』となっています。

今年は昨年に続き「平和を求めて とよはし」展 の2回目になります。

Dsc03440 会場入り口案内

展示物の説明は全て無料の冊子にまとめてあるので助かります。写真撮影は禁止となっています。

Dsc03441 冊子

ここでは展示物の項目と少しの説明を書くのみとします。

・さまよい続けた一兵士 グアム島戦線の体験・・・97歳の方、過酷な戦争体験。自分だけ生きて帰り申し訳ないという気持ちは四六時中離れることはない

・極寒の地 シベリア抑留の日々・・・94歳の方、シベリア抑留の体験。射殺に遭うもわざと相手が弾を外してくれて助かる

・勤労学徒の戦争の記憶・・・92歳の方、当時名古屋に下宿し、名古屋空襲に遭う。下宿の奥さんが流れ弾で亡くなった。

・渥美線電車機銃掃射・・・88歳の方、友人がその電車の車掌で命を落とす。当時は名誉なことだと思っていた。

・子供の目に移った戦争・・・82歳の方、昭和20年6月19日の豊橋空襲逃げまどう。軍需工場の無い豊橋が何故ねらわれたか。

・戦争が起きた時代を考える・・・82歳の方、父は満洲で戦死。戦死することが美化されていた。

・総合的な学習「生きる 〜平成の語り部として〜」・・・豊橋市立汐田小学校6年生

・豊川海軍工廠の悲劇・・・昭和20年8月7日空襲2500人以上の命が奪われた。

 

暮しの手帖社発行の本などで戦争の壮絶な記録は読んでいましたが、豊橋にもそれを勝る体験をした方がいらっしゃることを初めて知りました。この展示会は毎年新しい内容で、当ブログも知らないことがたくさんあります。

このような体験をされた方は90歳代か、80歳代後半の方になりますが、やがてはこのような話も聞かれなくなってしまいます。大変貴重な話だと思いました。

改めて感じたのは「自国が負けるとは全く思っていなかった」という人が多かったということです。情報が知らされず、地震のような自然災害の情報まで知らされませんでした。

また「敵機が来ても追い払ってくれると思っていた」ということです。しかし実態は全く違っていました。開戦時から物量の差は石油一つとってもアメリカは日本の777倍でした。米軍の兵器を見て「とてもじゃないけど勝ち目はないなあ」と体験の語りにもありました。

さらに「国のために死ぬことが名誉なことだという思いであった」ということでした。若い人こそこのように思っていたのではないでしょうか。

あの戦争は過去の出来事として忘れられつつあります。軍民合わせて犠牲者は300万人でした。

 

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2019年6月 6日 (木)

「戦中戦後の頃の話」百話

戦中戦後の頃の話」が百話となりました。

この話を書き始めたのは、里山のブログを書いていると同じ山の繰り返しとなり、これでは変わり映えしないので、何か付け足して書いて行こうと思いました。

山に関係した子供の頃のことを書いていましたが、それは戦後の頃と重なり、それでは戦中戦後の頃を書いて行こうという思いになりました。また戦争を少しでも知っているものとして、それを伝えてゆかなければいけないという思いもありました。

「戦中戦後の頃の話」は1部〜3部になりました。1部は戦中戦後の体験、2部も体験ですが、戦後大分経ってからのことも書きました。3部はその時住んでいた三ヶ日町の戦中戦後について町史より書きました。 

5月1日より令和の時代となりました。昭和から平成を経て時代も変わって来ました。戦後生まれの人口も84%となり、太平洋戦争を経験した人も少なくなってきました。太平洋戦争は過去の出来事として忘れられつつあります。

あの戦争の時代に生きていれば、誰も戦争に巻き込まれて行きました。戦争に反対しても、戦争を拒否しても、そこに「戦争が立っていた」のです。そのような時代の中にあって犠牲にならざるを得なかったのでした。非業の死を強いられた戦没者にはひたすら追悼あるのみです。二度とそんな時代には戻りたくないものです。

 

 

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2019年6月 5日 (水)

本「戦争が立っていた」

本の紹介です。暮しの手帖社から5月末に「戦争が立っていた」という本が出版されました。副題は「戦中・戦後の暮しの記録 拾遺集 戦中編」となっています。これは昨年発行された戦中・戦後の暮しの記録」の続編になります。

Dsc03208_2 今回発行された「戦争が立っていた」 

今回発行された「戦争が立っていた」には、 前回発行の「戦中・戦後の暮しの記録」で掲載されなかった原稿の中から44編、および1968年に発行された「戦争中の暮しの記録」で収録されなかった原稿から10編が収録されています。手記・聞き書き・手紙・絵・写真などの記録です。

今回の副題が「・・・戦中編」となっているので、続いて第3集「なんにもなかった 戦中・戦後の暮しの記録 拾遺集 戦後編」が7月に出版されるそうです。

書名が「戦争が立っていた」となっていますが、これは 俳人 渡邊白泉(1913~1969)の句「戦争が廊下の奥に立ってゐた」から取ったと思われます。戦争はいつの間にか日常の中に、知らず知らずのうちに入り込んできて佇んでいました。

戦中編なのでこの中に収められている手記は、壮絶な体験をした人たちの記録です。 収録されている人たちの年代は80歳代が多く、90歳代の人も何人かいました。70歳代は戦争体験した人は少なく聞き書きの人もありました。

当ブログ現在78歳ですが、終戦のときは5歳になったばかりで、4歳頃の戦争の記憶はあります。住んでいたのは田舎であったので、空襲はうけておらず、悲惨な体験はしておりません。しかし、空襲警報が出て防空壕に走ったということは何回もありました。この本で戦争のむごさがよく分かりました。

あの戦争から74年が経ちました。戦争を体験した人もやがていなくなってしまいます。令和の時代となり、昭和の戦争の時代も遠ざかっています。戦争の記憶を風化させぬよう、若い世代に伝えて行く貴重な本です 

 

 

 

 

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